2010年08月13日

三種の神器とWHOの定義


   



[天の岩戸神社 本当に気配のいい神社さんですね。たしか戸隠神社の前の大銀杏と同じ種類の銀杏がここにあったと記憶してます。]
  






論者は霊性、精神、体を「いのち」、「こころ」、「からだ」と平易に言い換えている。


また「いのち」とは宇宙からの預かりものあり、その宇宙の反映体だから「鏡」。

「こころ」とは喜怒哀楽のようにまるでタマがコロコロ変わるから「勾玉」。

「からだ」は魚の骨みたいに節々があって、バッタバッタと人生を切りまわるから「剣」。



人間そのものを、「鏡・玉・剣」の三種の神器と見立てている。



またWHOの健康の定義を次のように平易に解釈しております。

「愛と感謝に満ちあふれ」(Spirit)、「たくましく生き」(Mind)、「足腰丈夫で医者要らず」(Body)ということにまとめた。



Spiritを日本語で霊性と訳しているが、その正体が厚生労働省でまとまっていない。

またお役所では「霊性」の定義とは?とかこの手のものはまとまりようも無い。

論者はそれを誰しもが戴いている『いのち』としてみている。




『いのち』こそ肉体だけの特権ではなくて、死んでもでもなお生き続いて、魂につながっている本源の大生命意志・サムシンググレートから戴く「意の道(血)」である。



サムシンググレートの一部がワレでもあり、草花でも岩でもある。

『いのち』はみんな一つに繋がって、ワレの内側にあるものでなく、ワレから外に広大に繋がっているもの。


だからAll  is  One. でみんな一つに繋がっている。

それを頭で理解しようとしても、出来るものでもない。

命は見えないし物理の定義も出来ていない。

でも誰しもが霊的直感で「いのち」は分神、神の分かれたものと分かっている。



神道では、****の命、と書いて「ミコト」と読ませている。


男は霊子(彦:ひこ)と読ませたり、女は霊女(姫:ひめ)と書かせたりもする。  

2010年07月17日

日本の夜明け





[エルサレムはキリスト教も回教も入り乱れて、思想のぶつかり合いが2000年も続く。ここエルサレムに世界人口の約三分の一のヒトがその思想の故郷となっている]




スエーデンボルグはスエーデン科学アカデミー協会員で今生きていればノーベル賞を与える側の科学者でもありますが、「霊界探訪」で著名な彼は「地球とは魂の生産工場である」といったようです。


私には「地球とは魂の修行場である」という感覚がいつももたされています。


この地球を人の頭になぞらえると、西洋は左脳で東洋は右脳といえるようです。
左脳の論理思考と右脳の精神思考の中央分離線という脳の溝が地球上では東経35度ラインにあるエルサレム辺りの縦の経度ラインかと思います。



だからエルサレムが良くならないと右脳と左脳を繋ぐ脳稜は架け橋がかからないと勝手に思っています。


東経35度、のエルサレムの真反対が丁度タヒチ島あたりになりましょうか。

基教と回教信者、世界人口の約1/3が信奉するエルサレムがある。






[カイラス山  ヒンズー教と仏教の聖地ですから、ここも世界人口の三分の一がその思想の故郷となってます。]





エルサレムから、東の方向に地球儀を46度回転すると東経81度に須弥山(カイラス)があります。


ここは五体投地の聖場で仏教・ヒンズー系そして一部回教徒も含む世界人口の約1/3の信奉地です。



ですからキリスト教と回教の中心地エルサレムと、ヒンズーと仏教の中心地カイラスを合せると、両方で世界人口の2/3の思想の聖地はこの地球という頭部の2経穴に集中してます。




さらにエルサレムとカイラス間のほぼ同じ距離を、カイラス山からさらに東の方向に46度そっくり動かし、エルサレムの緯度の北緯32~33度で見ると、そこはと九州の高千穂あたりたどり着きます。



九州は東経130度くらいですから、エルサレムを前頭葉(アジーナ辺り)とすると130-35=95度で、人のツムジを北極にするか南極にするかで変わりますが九州は左脳か右脳のほぼ中央に位置することになりそうです。


でも日本民族の性情からすると日本列島は地球の右脳のように見えて、ユダヤの物質論理に対して右脳の感性的役割を果たす民族のようにも見えます。



地球的規模でもある物質経済、モノの豊かさから、心の豊かさへの社会的価値観の変化は、左脳に片寄りすぎた論理志向を変えて、人間の右脳の本質的感性を磨くところにあるように思います。


もちろんその役割が日本国民にあるように思います。


以上は1996年にふと気付いておりました。

このことからその年の夏に、九州の幣立神社を訪れるきっかけとなったのです。
幣立てでは、大きな白犬に誘導されて、神社裏のミソギの泉水に連れて行かれました。





[千賀一生さんには、今年のサトル秋の大会に登壇いただくことになりました。]





7月9日に「ガイヤの法則」(徳間書店)を書かれた千賀一生さんと三田でお会いしました。



千賀さんの説は、最古のシュメール文明の地エリデュウから22.5度東に文明の拠点がずれていったという。


その22.5度とは「菊のご紋 16光」に注目したのです。

つまり360度を16で割ると22.5度。

シュメールから22.5度 東は前インダス文明の中心地に、さらに22.5度東はガンジス文明の中心地、さらに22.5度東は唐文明の中心地である長安。



さらに22.5度 東は、東経135度の神戸あたりだそうです。


それがそれぞれ、6400年前、4800年前、3200年前、1600年前(唐文明)となり、そして丁度 現在が文明の切り替わる時期とか。



千賀さんはソフトなおとなしい語りの方で、いまは「わの舞」という舞踊を広めています。


今年のサトルの秋の大会(10月24日 津田ホール)には、出演を快諾されてます。


いずれにしても、この日本という国は、約束された地で、なおかつ今が開明の期ということでお互い納得させていただきました。  

2010年06月13日

ウンチさん ありがとう




[淺草 吾妻橋のおなじみウンコビル。巨大なウンコですね。 ここにはアサヒビールのショットバーもあり、4階にはアサヒスクエアーといったかしら、ホールもあります]




サトルエネルギー学会の専務理事などをしておりますと、色々な方とお会いします。

その方々は科学者あり、教育者あり、お花の先生あり、農業関係者、お料理研究家、そしてごく普通の奥様。


共通するのは、心や魂を全てに優先されている方々です。
それでいて宗教じみた話に転ずるでもなし、ごく当たり前に心のあり方、万物に感謝するという姿勢が何方ももたれている。



またガンからの生還、幼少時代から抱えていた喘息やアトピーや様々な病からの解放など、過去に非常に大きな肉体上の辛い体験をされた方も多いのです。


こうした方から伺うと、病と心は常にリンクしていることが分る。
身を持って体験しているから「病」と「気」との関係が十分腑に落ちている。




そしてまた病気は「便秘」という腸内の働きが鈍ることも共通している。


とりわけ、がん患者さんは、現役のお医者様や医事評論家の話を聞いても、どなたも「便秘症」で一致するのです。
つまりがん患者で便秘症でない方はいないといってもいいのです。
いかに排便が大切かわかりますよね。



「法」とは、サンズイに去ると書きますから、「水が流れる」という意味のように、一切が流れて循環しないと調和系が保たれないことになります。

お金の流れが悪くなれば、社会経済は鈍化します。
ですから儲けたお金は、どんどん使うこと。
あまれば、周りにおごってやりなさい。



血液の流れが悪くなれば貧血や高血圧ともなる。
心臓の周りの血管も流れが悪くなると、心筋梗塞になりやすい。



「ウンチ」の流れが悪くなると、体内に毒素がたまり、内臓はおかしくなり、やがてガンをも誘発する。


「食べる」という入り口管理も大切ですが、それ以上に「排泄」という出口管理が重要です。



食べる時に、頂くものに向かって、「ありがとうございます。いただきます」の言霊でその命を頂き、五穀の魂が自分の中に同化する。


「ご馳走様」の言霊で身体の栄養素にもなるが、それ以上に五穀の見えない魂が、私たちの魂の味方となって増えることになる。



食べ物では「玄米」が腸の力を強め、便秘には一番効果的。
また野菜の根物(大根・人参・ごぼう・芋など)が何よりもよいし、ぬかずけ、味噌汁といった発酵食品は実に「腸(超)きもちいい」排泄を約束しくれる。


五穀の魂は自己の魂に同化し、五穀の身柄は身体の栄養素と腸からの排出物に分けられる。
そして、五穀の残骸と腸内菌の連合物である排出物(ウンチ)は毎朝気持ちよくおトイレで水と一緒に流れて行く。

だから私は、お役目を果たしたその「ウンチさん」に毎朝トイレで「ありがとうございます」と手を合わせて、水栓のコックを開き流しております。  

2010年04月29日

三六九のお話し


彌勒下生といって弥勒菩薩様が36億9千万年後にこの世に再臨され、一切が救済されるということです。
しかしそこまでは待ちきれませんね
早い話 自分が彌勒様に化身したほうがいいですね。

そんな不遜な思いもあるのですが数霊の81数 魔方陣は大変面白い性質をもっております。









上図は81数魔方陣ですが、最初の1の数は、中央下部太枠内で、またその太枠内でも中央下部に入れる。

2は右桂馬とびの太枠内でかつ、1を配した位置である中央下部の位置に配す。

3は左中央太枠で位置は中央下部、そして9まで図を目線で追いかけてみましょう。

ひと巡りして、10は再び下段中央の太枠内に戻りますが、配置はその太枠内の右桂馬とびの位置。

11は右上太枠内で配置はその枠内の10と同じ右上の位置。


以上のように81数を埋める。



中央部の太枠内をご覧いただくと、その数は一桁に丸めるとすべて5となるのです。

中心は41つまり4+1=5。
59は5+9=14で、つまり丸めて5。
中心宮の枡内の数はすべて5となることが分ります。



縦のライン、横のライン、斜めのライン、それぞれの数を足し算してみましょう。
どの縦ラインも、どの横ラインも、全て369となります。
81数魔法陣にはその背後に弥勒(三六九)が隠されているのです。

中央枡の9枡の和算も同様に369です。
また4隅コーナーと中央線の上下数(81,1)、左右の中央線両端(21、61)並びに中央の41数を足すとこれもまた369となるのです。




伊勢内宮拝殿の芯柱は41本、長さは5尺です。

すなわち81数魔法陣の中心の数です。

拝殿の横幅は3丈6尺9寸の三六九です。

奥行き1丈8尺すなわち最終の数81と同義です。


詳しい話はまたの機会に譲りましょう。




三六九自体が一桁に丸めると神数九となり、この数は永遠の久(きゅう)であり、良性思念・想いの凝固の九(こ)であるのです。


神数9の2倍の18、それは一分間のヒト呼吸数になり、さらにその2倍の36はヒト体温です。
またその2倍の72は脈拍となり、144は最高血圧であり、288は妊娠期間中の十月十日となります。

このように神数九は、霊止の中にも重要な秘数となっていることが分ります。






[帯津良一会長、寺山心一翁理事長、村田幸彦副理事長そして鈴木]





4月26日の夜の川越の帯津三敬病院に寺山理事長、村田幸彦副理事長そして、専務理事兼任となった鈴木の三名で帯津会長を表敬訪問しました。


サトルの帯津良一会長のお生れは1936年、そして寺山心一翁理事長も同じ1936年生まれなのです。


369のご両所を交え新しいサトルの体制をお祝いした四人での写真がごらんのトップのお写真。


じつは村田副理事長の会社 株)バイタルウエーブさんの銀行口座番号は0099633なのですよ。
鈴木の奥さんのケイタイ番号が5369で、私が当年で満63歳です。



この席で2月にお亡くなりになった片岡慎介さんのお話をしていたのですが、
私が彼のご自宅のfax 番号は末尾0369というと皆さんビックリされてました。


また話は変わって、サトルに「エネルギー医療」に力を入れたいなどの話をして、その推進役に小児科医の向後利昭先生(サトルの監事)に相談しようということになりました。


そうなんです。
向後先生のお生まれは1963年なんです。


サトルの学会誌も国会図書館が管理するISSN(国際標準逐次刊行物番号)登録ナンバーはISSN1342-4963です。


みなさまも369に関連される方はどうぞ、サトルの正会員にお入りになることをお勧めします。
不思議な御縁が出てくるのですよ。  

2010年04月21日

今を感謝します




[4月17日 サトルの春の大会では、お帰りになる方 お一人お一人に理事から感謝飴をお配りしました。]




 坂本堤弁護士一家殺害など2事件で殺人罪に問われ、2005年に判決が言い渡されたオウム真理教元幹部・岡崎刑囚が、朝日新聞記者寄せたに手記を紹介しよう。

死刑を宣告された彼が、養子縁組した岐阜県の禅寺の住職に、刑執行を前に心境をつづっている。


 
「今から7年前、坂本さんご一家の菩提(ぼだい)寺のご住職より戒名のお札が届きました。
私から友人に依頼したものですが、戒名が房に届いたとき、涙が止まりませんでした。  
それ以来、日に4度、お経と共に感謝の祈りを唱えております。  


自首を決意してから10年。つらさ、切なさ、むなしさ、そして悲しみの声が耳に触れる度に、のどの奥が詰まり胸が締め付けられます。  

それでもなお、生きているうちに、自分に出来ること、己の使命とは何かを突き詰め、自分にしか出来ないこと、どんなことでもいい、被害者とご遺族のために何かで償いたい。刑を科される日まで、ただひたすら陰徳の道を歩み続け、生涯を終われたらいいと、手を合わせて参りました。


 そんな折、坂本さんご一家の菩提寺と同宗の禅に巡り合えました。
 皮肉な因果と申しましょうか。
仏教の呪縛にはまり、大罪を犯してなお、再び仏教によって救われるのですから。  



真の仏教とは、教義に依存せず自ら気づくことによって自己を高めていく修行なのです。  

求めるものは何もなく、この世が浄土であることに気づきます。

(信徒らには)あるがままで救われていることに気づいてほしいのです。
そして今、自分も救われていることに深く感謝し、ご縁ある多くの人たちの安寧を心の底から願い、一瞬一瞬のときを、生きることの大切さを、肌で感じとり、周囲の温かい支援によって生かされているのです。


最期の日まで、生かされていることの大切さを深くかみ締め、被害者のご冥福を願い、ご遺族に思いをはせ、少しでもお心が癒やされることを祈り続けます。

 
ありがとうございます、今を感謝します。心のままに。合掌。 』




死刑囚という極限におかれた状況にあっても「今を感謝します」という心からの叫びに、私たちも学ばされる。


自殺者が年間 3万人を超えますが、「今を感謝します」という心境には程遠い。





[もうすぐ根須神社のサツキもみごろになるのでしょうねえ:根津にて]




普段の生活でも、朝、元気に目が覚め、味噌汁のにおいがかげる自分がいることに、ありがたさを感じる。

手が動き、歯を磨き、階段を自由に降りることができる自分に、ありがたさを感じる。


「いまを感謝する」ことが原点なのですが、息をして歩くことに何のありがたみもなく、家族がいることが当たり前で、お給料をいただくことが当たり前になってくる。



そうすると、不満という偽我にしはいされ、その不満は心の陰を作り、その見えない負のエネルギーは病を誘発する。



日常に「感謝を忘れる」ことが、マイナスの始まり。


全ての中に浄土が詰まっている。
  

2010年03月27日

家族にありがとうございます 




[帯津良一先生を囲む 笑顔のみなさん。笑顔だと幸せが飛び込んできますよ]




また生まれ変わっても同じ家族でありたいと思うのは私ばかりではないでしょう。
そしてどんな時が、どんな過去がよかったのか?と問われてみると、やはり「今が一番」としか言いようが無いでしょう。
確かに過去に良い思いもした瞬間もあるでしょうが、過去の一定期間に戻ってみようとは余り思わないのです。

いやな自分の姿がさんざんあったし、つらい経験もした。
ですから過去よりもきっと興奮するような新しい体験が未来にあるかもしれない。

けれど、未来に思いをめぐらしても、必ずしも幸福であるという保証は何処にもありません。

こうして修行してたどり着いてきた「今」、それが一番であって、それを支えてきてくれた家族に感謝したい。

だから生まれ変わっても、また同じ家族でありたいと思うのです。



人生に障害が無ければ、人としての見識の深まりという進化は無いはずです。
障害も振り返ってみれば観音様の仕業と知れる。


人生常勝という方はまずいないでしょう。
たまたま成功しても、それは先代や知人から教えられていたことであるから、大難に至らなかっただけ。

初めての体験なら、誰しも失敗する。失敗して当たり前なのです。

教わったことも無く、考えてみてもいなかったことなら誰しも失敗する。


が、その失敗の体験で人生が太くなる。知識が増え、見識が通り、胆識が蓄積される。だから人生の荒波も通り過ぎ振り返ってみれば観音様のしかけと知るのだ。






[ごリラも笑顔だと仲間が増える]




自分の心の世界がその写し見の家族。自分の悲しみや喜びが鏡に反映されるように、即刻その家族にも反映される。
家庭とは共生の原生核。

共生体という最も最小単位ですね。その共生の核が歪んでいては、一歩外の周囲は、もとよりまとまらない。

外にでて家庭の外堀を作るのですが、外面(ソトズラ)がよくても核の中味が、り.不安・悲しみ・疑惑・イライラであればそのうちペンキがはがれてしまう。


かくして自分の心に濁りを創っていけば、内面(ウチズラ)はすぐにも家族の鏡に映って、濁った家族の姿を反映させる。
外面もやがて世間の鏡に移り、人生は内も外も苦渋に満ちた像を描く。


絆という最も近くて見えない氣のつながり。
此処から輪(和)が世間に広がっていく。
見えないものと見えるもの、その氣綱を意識せよ。





[家族が笑顔だと、無邪気だから「邪気」がこない]






家族という共生の原生核は、その芯が暖かければ、周りを暖める。

見えない心の温かさ、それが見える家族や周囲を現に暖めているのですね。

奥さんや旦那さんに「ありがとう」とは中々、言いにくいのかもしれません。

ですが朝の挨拶と食卓の団欒、その中に純粋な絆が張りめぐらされている。


朝一番に顔をあわせれば「おはよう」、お茶を出されれば「ありがとう」、新聞もどうぞと差し出す。
その言霊がスタートで、それから外に出でる。

仕事に社会に、自己主張と自己顕示と自我我欲をふりまいて、また同じ前世の過ちを繰り返すか。
しかし、せっかく生きるのなら、心の底から生き生きと輝いて生きるべしである。


貧乏でも仕事をさせていただいている。まだ働けるし失業もしていない。
そこそこ文句があって小さなトラブル起こしても、世間にリカバリーが打てるようになっている。

出来るようにお前(論者)を包む。人生、いかほどでもリカバリーショットが打てる。

世間さまに「ありがとうございます」といって謙虚にコウベを垂れれば、世間様は笑顔を返してくれるというもの。


家庭の明るさが、そのまま地域社会を照らす。
家庭も仕事も地域社会にも「ありがとうございます」と常に笑顔で接していれば、鏡の世界は「ありがとうございます」といつでも微笑みかける。  

2010年02月24日

自律心の一つの強化法





[夕暮れ時の梅 もう見ごろですね。見るだけでなく語りかけてみてください]





我欲を離れ、こころ豊かな人生の姿勢ではあっても、人によりその自然治癒能力は違う。

なぜでしょうか?



感動や充実は、人それぞれによって皆その内容も質も違います。

毎日 80点以上の点数のテスト結果をもってくる子供さんは、お母さんに90点や95点の「プラスの内容物」を見せても、お母さんは「よかったね」レベルの反応が帰るでしょう。

一方、常日頃 20点や30点をもらってくる子供さんが80点の成績表もらって帰りますと、お母さんはビックリ仰天して「まあ、なんてこと!素晴しいじゃないの!!」と大喜び。


日常の心のレベルと、得られた感動や充実のレベルが余りにも飛躍して大きすぎると、肉体内の脳内ホルモンや、免疫細胞は大きく活性化する。



愛や喜びの脳内放出ホルモンはDNAに強い「プラスの環境シグナル」を出すことになります。
つまりDNAはその環境に応じた力強い生体系を創り上げるように作用するのです。



人それぞれの愛・感謝・喜び・充実・感動の中味も、他人が見て劇的な感動的な場面でも、薄く感じる方もいる。

同じ場面を受けても、それぞれの喜びや感動の強弱は様々で違います。
ヒトには個性があり、感謝や喜びの魂の反応は個性、もって生まれた魂の質に応じて違います。


道端に咲く可憐な蓮華草の発見で感動する方もいれば、単に「綺麗ね!」で終わる方もいる。また一瞥して、何も感じない方もいらっしゃる。
仏教では、衆生、声門、縁覚、菩薩、仏陀の五階梯がある。


その魂の質に応じた感動の軽重が、DNAに作用する「環境シグナル」の強度の違いであり、自然治癒力の差となって現われてくる。





[飯倉  熊野神社さん。この裏手がロシア大使館になりますよ]





「プラスの心のあり方」が肉体細胞に大きく働くようにするためには、次のように誘導していくことが経験上 効果的と思われます。



それは
1) 神仏への祈りを習慣化すること
もちろん物質社会とのバランスが、もとより重要ですが、人間はすべからく五感の情報、つまり物質社会に暮らすその眼から、耳からの影響を受けやすく、物質思考となりがちです。
見えない神仏に対する思いを習慣化することで、体主霊従の偏りを「霊主」により戻して、またそれに集中する時間を持もつことで「霊主」が心の奥に浸透するからです。


2) 読経や祝詞を強く発する。
言霊は、「意識の現象化」に非常に大きな作用を持つのです。
遠慮した小さな声では、心に弾みが少なくまた、意識-現象―肉体の一体化が遠慮しがちな、密度の薄いものとなってしまう。
ですから回りに迷惑にならない程度に、大きな声を出すことが大事なのです。
論者も「六根清浄祝詞」ほかを、大声で響かせることで、小声よりもはるかに肉体細胞の力強い反応を認めている。


3)「ありがとうございます」言霊の多発
  存在への感謝、なんといっても最強の言霊がこの「ありがとうございます」。「ありがとう」の五文字よりも、「ありがとうございます」の十文字で完結してください。
そしてこの最強の言霊を、常に日常の会話として身につけること、これが大事なのです。


4) 毎日が「充実」の種拾い、「多様ないのちの発見」につとめる。
「いのち」とは草花や昆虫や、この世にあるものすべてが持ている。
そのいのちの営みを見つけては、生命の素晴しさを発見し、感動を覚えることが大事。
毎日毎日が感動の発見で、自然治癒力への発動信号である「環境シグナル」を常に補充することです。




より強い充実感は、深い洞察力から生まれる。

深い洞察力は、自分の心をゆっくりと静かに見つめることから生まれます。


いやいやな物事にぶつかっても、静かに受け止める「自律心」を養います。  

2010年01月18日

大根役者




[神棚に感謝する習慣を小さい子供のうちからすると、大きくなっても曲がり道には入らないもの]






大学も技術系で、すぐさま入社した企業の配属も研究部署。
一部の移動もありましたが、20数年間の企業生活では研究開発に携わってまいりました。


したがって、芸能人とのお付き合いなどは50歳を過ぎるまで、まるでといっていほど無く、わずかに週刊誌やTV情報で知る程度でした。


ところが16年ほど前に「サトルエネルギー学会」が創立されて、「科学」と「精神」を繋ぐ学会の趣旨に、これまでにない魅力を感じ発足時から入会しました。


その私が、サトルエネルギー学会の事務局長や運営委員長を預かることになったのが2001年からです。

今では自分の小さな会社に、学会の事務局を置いてボランティアの方々もよくお見えになります。



この辺りからは様々なジャンルの方とお話をしたり、講演依頼をしたり、あるいはそれ以来の交誼をつづけていたりもしております。


したがって舞台装飾のプロのかた、歌手の方、ダンサー、写真家、音楽家、画家、TVタレント、気功士、茶道の先生、大学の先生、医師など実に様々な方々とかかわりを持ってまいりました。


今までの自分が機械相手の科学技術バカですから、上記の方々は人間相手の方ばかりです。

ですから、こうした方々とお付き合いをすると、その様々な体験や見識に心を新たにされたわけです。


科学者は往々にして、芸能人を世渡り上手の口当たりのいい世界の住人との一種のさげすんだ見方をします。

しかし、芸能界に身を置く方と実際にお付き合いをしますと、人間相手の世界でもまれているだけに、実に深みのある感性の鋭い方ばかり。


逆に相手からは、科学畑の論者が精神界にも詳しいことに驚きの眼差しで見られることも少なくありません。

ましてや啓示やご神示などを平気で言うものですから、奇異な感覚で見られたりもします。





[自宅から近くの三田 龍源寺裏 路傍のお地蔵さん 今年もよろしくお願いします]







時として、芸能畑の方と飲み屋で飲んでこんな話もしました。



『鈴木さん、大根役者って何でそういわれるのか知ってる?』

『そりゃ、生っちょろくて、飾り気が無いので、花も無い。だからあんまり目立たないし、そう芸も旨くない』


『残念でした! スグに切られる、干される、おまけにオロされたりもする!』





なるほどね、シャレなんですね。こんなことも、教わりました。


でも、彼が自分の立場も重ねたのかな? なんて想ったものですから、次のように添えました。


『でもこのブリ大根 旨いよねえ。大根があって始めてブリが活きる。大根自体も煮込めば甘辛に染みて、実にいい味出しているよね』



色々な世界の方々と、混ざっていくと世界が広がって本当にいい勉強になりますね。

夫婦も若いうちは、白と黒のぶつかり合いですが、老夫婦になってくると男は女性性を学び、女は男性性を学ぶもの。


様々な経験を積むことで、何か一段と大きな調和の世界が、広がっていくのですね。  

2009年11月23日

神聖DNAの覚醒 その2 





[心の中の平和と、世界の実相は異なる。社会政治経済はその目的とするところが、ワレヨシが基本である。経済も政治も本来は、愛一元が基本である]




私たちの意識は、幸せを望み、家族の健康を願い、世界の平和を祈っている。


ですが企業にあっては、まるでダーウインの進化論、強いものの勝ち残りが、企業の基本として根付いています。


そこには愛や優しさや思いやりとは異次元の競争社会が当たり前です。


永田町の理論も、家庭生活のささやかな楽しさや、スポーツの話題や、心の触れ合いなどとは無縁な権力構造。




社会はまるで、すべてがバラバラでいつの間にか奪い合いや一人勝ちが当たり前のようになって行きました。


人はバラバラで、どれだけの取り分を我が物にするか、少ない投資で短期に金をもうけるかといったことがずっと続いてきたのです。



ですが本質は、家庭の中での夫婦の会話や日常感覚と同じで、美しさや感動を味わい、またどれ程のことを回りにして差し上げられたかなどの当たり前の人間性が社会の基礎であったはずです。



大昔の集合村落での生活や、一回り大きな村と村との付き合いも、相互の幸せの与え合いが付き合いの基本で、感謝やお礼や返礼で、場合によってはこうした心を伴った「対価返礼」であったのです。


私たちが旅に出かけて、かなりなお金を出したりもします。

それは快適な交通手段と地元の心あるサービスを受け取り、楽しい食事であったり、お宿の雰囲気もよく、何よりも地元なりご馳走もいただけた。

その総合的な「幸せの対価」として旅行代金をお支払いするのです。


ソコソコに高くても、旅行者にとっては心から満足したその「幸せの対価」をお支払いしているのです。

企業も、売る商品の対価がお金ではなくて、いまいちど「企業が与える総合的な幸せの提供」、商品の利便性、商品の総合価値、商品の使用説明の応対はじめ、陳列室や棚の雰囲気、そしてアフターフォローにいたるまの全体に流れる一切の企業からの提供の結果が「対価」ことであることを考えなくてはなりません。
ですからクレーム保障など、幸せの欠損ですから無償交換は当たり前のことです。



全ての企業内活動も、社内の労働とその対価つまりお給料もおなじことで、上司を通じてお願いされたことにどう気持ちよく集中して、人のためになるという視点で役務を差し上げたか?





[心の中の実相 真我は他人の喜びこそ本質的なわが喜びであることを知っている。それを具体化した時に、神聖DNAは突如として開く]




大釈迦の八正道の一つに「正業」があります。

「正業」の本質がここ「他人への総合的幸せの提供による報酬」にあるように思います。



人を幸せにすること、人を喜ばせ、人を感動させ、人の心を充実させ、人様に純粋な感謝の念を抱かせられたとき。 

それは全て自分にかえる。

他人のハッピーが、自分のハッピーになることはDNAが変わるということです。



人に差し上げた想いや行為、それも因果応報の法則による。


大きな喜びを差し上げれば大きな喜びが自分にかえり、小さな充実を差し上げれば、同じ大きさのちいさな充実が己に還る。

人生「幸せの提供」がその長い道のりであって、その中での想念行為が一切合切 己に還る。



それは、ブルース・リプトン博士や村上和雄博士の指摘する「DNAの覚醒」であるのです。


論者 鈴木は「他人への幸せの提供」こそ、神聖DNAの覚醒のキーであると明言する。


自分の喜びを人は追及するのですが、より本質的な喜びは、他人が喜ぶことが真我の喜びなのです。

他人さまに差し上げる喜び、味わってもらう感動、その方の心の隙間を埋める充実、そして人に感謝の心に浸っていただくこと、他人に与えるが「幸せの提供」、その喜びが神聖DNAを覚醒します。


神人の基本は、他人に幸せを与えることによって、それが自分の真我を呼び覚ます。


自分のなかにある、惨めな自分や汚い自分という負の感情は、虚妄なのです。


世界には貴方という存在しかいないのです。

それは貴方がこの世に必要だから、神様が貴方がこの世に送り出し存在しているのです。


そしてまた、出来事には一切無駄など無く、全てに意味があるのです。
試練もまた、進化の素材。
それなくば、「進化」はありません。  

2009年09月30日

気合神輿




[芝神明前でかつぎ手に頭上に差し上げられた町内神輿。此処からはターンして各町内を再び巡幸します。]





東京港区の三田、芝、新橋、浜松町界隈は9月がお祭りシーズン。
今年9月のシルバーウイークでは芝神明大祭で、今年は連合大祭。
つまり芝大神宮に関与する地元の氏子町会のお神輿が15基 連合となって、浜松町の交差点周辺を練り歩きました。


正式には「氏子各町神輿連合渡御」と言いますが、地の町会の方々が神輿を担いで、威勢よく練り歩き、芝大神宮を参拝します。
魁は宮元大門神輿会 これは宮神輿で、神社前にでんと居座っているのですが、町内連合とは次の1番から15番。

一番 芝大門一丁目北親会
二番 新橋五・六丁目町会
三番 浜松町一丁目町会
五番 芝浜町会
六番 浜三町会
七番 芝浜四町会
八番 中門前二丁目町会
九番 中三三治会 十番 片門前町会
拾一番 芝公園二丁目町会
拾二番 芝三丁目松本町会
拾三番 芝西應寺町会
拾四番 芝新堀町会  
拾五番 芝金杉町会



論者も毎年 神様を担ぎ上げており、倅の友人知人も混ざって一町内の神輿のかつぎ手も結構な人数になります。
最低50名は居ないとかつぎきれません。そして交代用員もいれ随行総勢100名といったところでしょうか。


今年は浜松町の貿易センタービル裏手の細道に、各町内神輿が集結し、此処から15基 一気に芝神明宮へ向かいます。






[浜松町交差点の折り返し地点、此処から神明宮まで一気に入ります。この地点が続々と渡御する連合神輿が見られる絶好のポイントですね]





もちろん、最初から神輿を担ぎっぱなしですと、翌朝には足腰が立たなくなりますから、タイミングを見てススット先棒を担いだりするのですね。

でも圧倒的に神輿背後に廻って、『ワッショイ!』と掛け声を掛けたり、拍手ではやしたり、また随行員同士のダベリングが多いですね。

道々 他の町会神輿を担ぐ知り合いの方々、それも一年ぶりに顔合わせの方との挨拶も十数人はいらっしゃたでしょうか。
お互い、握手をしたり「お元気ですねえ!」とか挨拶を交わします。

やはりどの町内の皆様も、自分の町会神輿を担いで、町の繁栄を願い、人と人との連帯を深め合うのは習わし。


代々、子供たちは大人から神輿のかつぎ方を教わり、神を祭り、穢れを払うという風習が受け継がれてきました。
そうした日本的な風習が、実は米国流ディベート(口撃)や合理主義という枠を超えた、「信頼」・「和」・「感謝」という、遥かに次元の深い心のつながりを育ててきたのです。






[威勢がいいですねえ!かつぎ手の3割から4割くらいが女性というお神輿もありましたよ]





神輿を担ぐ風習は、世界中でも日本とユダヤだけ。
スティーヴン・スピルバーグ監督の「失われたアーク」という映画がありましたね。
アークとは「聖櫃」のことで、モーセの十戒の書かれた石板、アロンの杖、そしてマナの壷を納めた、ユダヤの三種の神器を納めたもの。

その聖櫃に古代ユダヤ人は二本の棒を通して白衣束帯の司祭が、担ぎ上げたのです。



ですから、浜松町交差点の沿道にいらっしゃる外国人で、特にユダヤ系の方は喝采をしている。
当方町会のかつぎ手の方も今年は二名のガイジンさんがご一緒でした。





[やるもんでしょ、ヒゲオヤジも明日のわが身を知りながら気合を入れております]



神輿というと、ケンカ神輿や淺草の三社祭りでの褌にサオ乗りといった、品の無い話もありますが、神輿の本意は神様をお祭りし、町内巡幸で神息吹を廻しめぐらし無病息災を願うもの。

「和背負い」であり「輪背負い」であり、力を合わせて神様を担ぐもの。



そうした日本文化が心の健全な若者を、行動に芯の通った若者を育てる。


神輿の和繋ぎから、日本の和の精神が受け継がれていくのです。