2010年03月10日
ありがとう (在り難し)

[昨年 公園に愛と感謝のセレモニーを実施しました。この写真は芝公園から芝東照宮、児童公園の散策のときのもの。神社拝礼の現場ミニ講演もさせていただきました。今年も暖かくなってから行ないますよ]
最強の祝詞(ノリト)といおうか、ありがたいマントラといおうか、古来よりもっとも優れた神呪は一体何だろうか?
絶望の淵に及んで初めてこころの底から「神様、仏様!」と叫んで、確かに救われたという話を聞きます。
恐らくそのギリギリの心が、天がキャッチしたからに相違ないのでしょう。
「南無妙法蓮華経」がいいのか「南無観世音菩薩」の言霊でフェニックスを呼び込むのか。
いや「般若心経」か「天照大神」か「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネ」か。
論者鈴木には『ありがとうございます』が最高にして最大の神呪言霊であると考えているのです。
世界救済の祝詞は大祓祝詞です。その中の一説、「太祝詞事(フトノリトゴト)を宣れ」とありますが、宣るべきその太祝詞事(フトノリトゴト)の本文は空白になってます。
神社庁に聞いても誰も知らないのです。
その空白の太祝詞事(フトノリトゴト)を奏上して、「・・・・・かく宣らば、天津神は天の岩戸を押し開きて・・・・」と天界と人界のパイプがつながる。
従って、心の天の岩戸を押し開くのだから、その空白なる祝詞は、各々の心の感性に応じた「独自の暗号」のような言霊に違いなく、個々人で奏上せよということと思っているのです。
大宇宙大生命意志に対する全託の信頼と、この世に無くてもよい自己が今ここにある。
つまり自己存在という超奇跡に対する感動感謝が、皆さんに共通する至高の想いに違いないのではないでしょうか。
神と自己との信頼と絆は、「われ在り難し」から発した、単純素朴な言霊『ありがとうございます』の十音にほかならないのです。
たしかに、太祝詞には「ヒフミヨイムナヤコトモチロナネ・・・・」や「あおうえい カコクケキ・・・」などもありますが、『ありがとうございます』以上に今を感謝し、存在を感謝し、共生(トモ)に在るこのとの感謝言霊が見当たらないのです。
[論者の神社神業の基本は 感謝業 、そして己の神人に至らぬ侘びから入ります]
愛も調和も進化も勇気も、人神への修行に無くてはならない魂の凝縮されたエッセンス。
純正も希望も創造も信念も人から神への飛躍のための霊可理(光)です。
「感謝」は、それらの天が使わす八光に対するこちら側からの返礼です。
感謝に天に返す愛あり、感謝に天の期待である己の進化があり、感謝に神人に向かう勇気あり、感謝に共生の調和の義務ありである。
日本人が21世紀に世界を先導し物質至上主義から、共生主義とでも言う心と、特に魂を原点に据えた真の生き方、「霊主心従体属」を先導していきます。
原宿にたむろする若者も、電車ではた目も気にせず大声で笑いまくる女学生も、ゲーセンに入り浸る少年たちも『ありがとう』の言霊くらい知っている。
日本人なら誰しもが知っている「ありがとうございます」。
全ての日本人に新世界創造の大きな使命があるから「ありがとうございます」の十音(統一音)の単純素朴な言霊が授けられている。
世界を先導して行く天津霊継民族には、自らの心の行き詰まりを打開するためにもこの最強の祝詞「ありがとうございます」を駆使する必要があるのです。

[花を見て美しいと感じるのは、花の精霊が魂に語りかけているからです。だから精霊さんに返事を返すと反応しますよ]
何かにすがって、助かりたい、なにかに頼ってやり直したい、何かを念じて発奮する。
しかし他力の想いのその前に、本物の内なる自己の輝きを表現する言霊『ありがとうございます』があって初めて、人と神がつながる。
『ありがとうございます』で魂の発動がある。
そして自分の内部から愛が、調和への道が、進化の躍動が、勇気の充実が湧き出てくる。
想いが体質を変える。その想いが新たな遺伝子情報を創る。
その想いと言葉の至高の一致、肉体と心の躍動する究極の祝詞言霊、それが「ありがとうございます」なのです。
2010年03月08日
岩長比売さま
[大室山 山頂からわずかに下ったところに岩長比売さまを祀る祠があります]
以前にも触れました岩長比売さま。
お父様の大山津見さまは、天孫降臨のニニギの尊のお嫁さんにと、岩長比売さまを差し出された。
ところがニニギの尊は、面食いで「スミマセン!」とお断りをしてしまった。
このために、お父様は岩長比売さまの妹さまの此花開耶をかわって差し出された。
ニニギの尊は、この美女にいやも応もなく、やがて結婚されることになったのです。
ですが大山津見さまの心底は、皇孫のこれからの御世を、盤石なる末代までの繁栄を祈る意味で岩長比売さまを出されたのです。
岩長比売さまは、盤石や永代の意味にたとえられ、また大山津見さまの娘ですので、山々のイワクラにその陰を認めることが出来ます。
伊豆伊東の大室山という、すり鉢型の山には下からリフトも出てますので、容易に山頂に上ることができます。
昨年でしたか? 大室山の山頂に行きましたら、頂上が火口にの凹みになっていて、そこはアーチェリーの練習場になっていました。
火口といっても、もちろん死火山のようで、単なる200~300mの直径を持つ凹みです。
ですから誤って的からはずれた矢が飛んできても、周りに迷惑にはなりませんね。
[大室山頂にある5人仏は、富士山の方向を向かれております]
この練習場に降りる中途に、岩長比売さまの小さな祠があります。
周りが岩盤で、そのくぼみにある祠は富士山方向を向いている。
日本の山々は、どんなに小さな山でも神社や祠はある。
これが日本の原風景なのですね。
こうした風景は海外、特に欧米では見られません。
此花開耶さまの本拠地 富士山を眺めるポイントは関東近県いたるところにあります。
小高い場所には浅間神社さんがしばしば建立されております。
論者の住居の近場で言うと、品川神社さん、白山神社さんなどがそうですね。
浅間神社さんは、もちろん此花開耶さまがご祭神ですが、お姉さまの岩長比売さまと合祀されているところもあります。
ですが、めったになく岩長比売さま単独の祭祀神社は全国でもごくごくわずかなもの。
そうしたところは月読み神社さんとおなじですね。
[石割山の 巨大なイワクラ、この写真はもう5年くらい前でしたか、知人の榊間さんらとご一緒でした]
山中湖湖畔にある石割山は、文字通り岩が裂けているイワクラをお祀りした神社さんがあります。
ご祭神は岩長比売さまです。
岩長比売さまは、こうした直接祭神となられている神社さんは非常に少ないものの、木造の神社ではなく、全国の山々のイワクラ自体が、どうも岩長比売さまを内在しているように思えてなりません。
日本人の調和の意思(石)、生命をいつくしむ盤石な意志(石)に、岩長比売さまがいつも支えの波動を送っているような気がしてなりません。
2010年03月01日
言霊ア-ワの繋ぎ()

[言霊セミナー中の論者 鈴木 年に数回 こうしたセミナーを実施しております]
ア・オ・ウ・エ・イの「ア行五大」は主観自己の根幹をなす精神内容である。
「ア」は純正自己そのもの、「オ」は経験知性、「ウ」は勇気判断、「エ」は菩薩の智恵、「イ」は物心一切を存在なさしめている「大生命意志」であり「魂の本源」である。
この「ア行」は「誘な氣」のエネルギーの素性であって、ア・オ・ウ・エ・イはいづれも、手ではつかめない非物質、高次元の精神内容である。
ヒトガタ寝姿の五大、手足に五指をもつ「見える肉体」は、アオウエイ五行五大の相似象。
ゆえに「ア」の純正自己は数霊の「五」に、言霊の「口」とかいて、「吾(ワレ)」と詠ませる。
ワ・ヲ・ウ・ヱ・ヰの「ワ行五大」は「誘な氣」のエネルギー精神に相対する「誘な身」の「物質界」を意味する。
「ワ」は肉体自己、「ヲ」は命の水、「ウ」は塩・ミネラル群である。そして「ヱ」は火・渦であり、「ヰ」はこの生宮、地球そのものである。
また「ヰ」の地球とは「誘な氣エネルギー」の凝縮物質体でもある。
見えない精神の「ア:吾」に対して、見える肉体の「ワ」は「我」と書く。
すなわち「我」とは「肉体ワレ」である。
「ア」-「ワ」の繋ぎとは「精神の自己(吾)」と「肉体自己(我)」の統一である。
[御田八幡神社 都会の中にあっても 落ち着く神社さんです ]
精神系(ア行)と物質系(ワ行)は、「(イザナ)氣」と「(イザナ)身」の氣身二神に比喩せられ、また「右の手」と「左の手」、陽と陰にも比喩される。
よって神道では中道中和、精神界と物質界の統一自己を目して、左右の両手でカシワデを打つ。
右手だけでは「音霊」は鳴らず、左手だけでも「音魂」は成らない。
ちなみに神前で発止と打つ拍手(かしわで)は、知らずのうちに純正であったはずの自己精神の内部に巣食う「魔」の払え行である。
イザナ氣とイザナ身の「氣・身」二神の合体調和から発するの魔払いのための神音(カネ)がそれである。
「ア」 は吾、にして宇宙を思惟する霊的な主体自己。
「ワ」は我、霊的主体自己(ア)によって 認識される客体自己であり、ワ行の全景は「肉体自己」を含め、「ア」から認識される対象客体全体である。
「ア行」は精神宇宙のカオス一切を分別判断できる大生命意志(イ)の形質を持った分け御霊としての霊的創造主体である。
大宇宙初発の神エネルギー「高次元イ」そしてその物質形成体「ヰ」(地球)からやがて、「ア」と「ワ」が誕生する。
即ち「魂」と「三次元物質肉体」である。
ここにおいて宇宙御子 霊止(ひと)の誕生である。
霊止(ひと)とは神の賜りモノである。
ゆえに「魂」とは「賜いし霊(ヒ)」である。
また外に神は無く、神とは常に自己の内奥に住まう。
この命体(霊体)と生体(肉体)の不離一体の状態を「生命体」、「ア」-「ワ」の繋ぎという。
やがて「ア」から「オ」・「ウ」・「エ」が育成され、「ワ」から「ヲ」・「ウ」・「ヱ」が萌芽分岐される。
主観自己「ア」から全体を眺めれば、「実在系ア行」と「現象系ワ行」と認識することができる。
言霊ア・オ・ウ・エ・イは、ヒト精神の五大要素であり、それが宇宙の母なる基本波動である。
ア行は母音と教えられるが正しく「母因」である。
「ア」は「亜」であり「阿」であり「天」であり「吾」である。
「亜」は、ほのかな、未完の、なりきらぬという意味であるが、大神の亜神(幼神)とみれば「吾」と覚れる。
「阿」はコザト偏の「カタチあるもの」への変化の可能性、阿字相観の阿である。
すなわち形あるものと、カタチなきものとの境界と知れれば、エネルギーと物質の相変化の起点と読める。
「天」とはいわずと知れて神であり、「吾」のルーツである。
[千住神社さん その昔はかの地は森だったようです。]
即ち「ア」とは主観自己に他ならないが、それを「無限神聖」とみるのが覚者の悟りである。
また「悟り」とは「吾」の「心」と書く。
その「ア」の精神母体は國常立大神。
「オ」を(緒)と看ればその実体が時間・空間の変化、心の変化、転じて先祖霊との繋氣と知れる。
「ウ」は(穿)・(宇)と看ると、発見であり変化初動の驚きであり、転じて勇気・判断となる。「
エ」を漢字にパラフレーズすれば「慧」であり内なる閃きであり、光であり、智慧である。
言霊になる以前の覚者の閃きである。
「閃き」は言霊の芥子であり「言霊鳴る」寸前の脳内映像であり、菩薩界からの吾精神界への入力信号であり、これを「未鳴」(マナ)とも称する。
自己「吾」を成立させ、また他者を、万物をも成立させている生命エネルギー、大いなる生命意志が全ての生命体の背後に在ることに気づく。
つまり「花にも仏性あり」、「厠にも仏あり」、この万物を生かしめている本源が全ての生命体に存在する。
そのあらゆる命の本源、宇宙大生命意志を「イ」と表現する。
霊止(ヒト)の魂の中心核、直霊の行く末が「イ」であり生命の本源である。
「イ」とは天御中主大神をさす。
この「イ」を、低精神の開発過程でいえば衆生(ウ)、声門(オ)、縁覚(ア)、菩薩(エ)を越えた五階梯最上階の仏陀(イ)の境地がそれである。

[河津では、河津桜が満開だそうです。 写真提供:冨岡幸一さん ]
純正自己「ア」の依り代は國常立神、「オ」は月読み/息吹戸主、「ウ」は須佐鳴、「エ」は天照/速開津媛の依り代である。
また「イ」は先に述べた宇宙創造神 天御中主大神である。
オ・ウ・エは仏法の三智三命、神道の三貴神とも啓示される。
その三智を「ア(吾)」が心魂に受け、もとより「イ(大生命意志)」の意志を受け継いだ「亜神」が、オ・ウ・エを総動員して自己生命活動を輝かすのが、その存在使命である。
ワ行の肉体「ワ」は、イザナミ神の母体から頂いた。
「ヲ」すなわち一切の「水」を司さどるのは大綿津見神(オオワダツミ)並びに、水波能売命(ミツハノメ)神、淤加美神(オカミノカミ)の連合作用。
ワ行の「ウ」は大山津見神ならびに金山彦神、丹生都媛神の結晶体。
「ヱ」は火具土神である、「ヰ」は生宮地球である。
また「ヰ」は、ア行の全系に関わる「イザナ氣エネルギー」の凝縮体と覚える。
アーワの繋ぎとは「生命体(生体+命体)」そのものである。
またそれは精神原理の継承であるヤマト霊継ぐ民族と、物質原理を宝戴するユダ民族との融合に他ならない。
一方で、精神と物質の大調和に他ならない。
2010年02月21日
いやなことに感謝

[こどもたちは、みな無邪気。邪気が無いから元気なのです]
毎日毎日が大自然に育まれ、生かされ、常に学びの中にあると感すると、大きな安堵感に包まれます。
「天は自分を学ばせてくれている。何が起きてもそれは自分を育ててくれている。
それは大宇宙に包まれた自分、その自分が必要だから宇宙は私たちを存在させてくれている。
日々の喜・怒・哀・楽は、人生向上の学びの場。
その文字に見られるように、プライス思考の「喜」と「楽」の文字は縦半分にすると、左右対称の、調和なのです。
マイナス思考の「怒」と「哀」は真っ二つに割ると、文字は左右対称形にはなりません。
宇宙全体が、「進化と調和の法則」にあるから、人もまた日々が進化と調和のためのための場。
こうした自然観で物事を追っていくと、物・金・地位という物質欲とその執着がいかに、自分の心を小さくし、そして得られず満たされない自我の欲求に苦しむことになります。
人生を振りかえってみますと、最大の克服点が『執着』だったように思います。

[赤心をもって、すべてを受け入れる。それが堂々たる人生を作ります]
目線の現象に振り回されて、良しにつけ悪しにつけ「感ずる心」そのものが「己」であり「真実」であるというところに気付かなかった。
そのみえない心の中に、執着があることに気付かない。
それが、盲目の人生だったといえるようです。
仕事も政治も経済活動その一切が、物・金・地位の追求で動いていますから、自ずとその目線の悪風に巻き込まれ、心が飲み込まれて、ストレスがたまってしまいます。
心の執着によって生まれたストレスが、細胞を傷つけやがて本来 調和系であるはずの肉体細胞が変調し「病」へと誘導してまいります。
自己治癒のメカニズムであるところの、小宇宙を維持する免疫力はストレスとともに低下していく。
宇宙とは本来 大調和であり「真、善、美」そして「快」なる世界。
この真善美、その字も各々 縦真っ二つにすると左右対称系の調和ですね。
ですから自然治癒力とは宇宙に愛される生き方で発動するもの。
その宇宙に感謝し、「与えたられたすべてのものを受けとって」、たとえそれが自分にとっていやなものでも受け取ってみる。
この現象界は陰陽、男女、損得、愛憎、プラスマイナスがあり、「試練」と同時に「解決」も常にこの世に同時に同居している。
ですからマイナス現象の「いやだいやだ」と、これまで逃げていたものを、受け取ってしまうと、その「試練」は変化して「解決」に氷解する。
現象世界にネガティブと映るもの、それを心という真実体の中で受け止めると、ポジティブ、一切が回答に変わる。

[いまはボタンが見ごろのようですよ]
いやな人、いやなこと、いやな悩み、いやな病気、それらを素直に受け止めて、逆に感謝してしまう。
「天は自分を学ばせてくれている」と、いやなことにむかって、教えてくださってありがとうございますと感謝すると、それらは消えてしまう。
全てを肯定する。
それが大宇宙、小宇宙の公理である。
霊肉という小宇宙の世界だから、一切を肯定すると、現象三次元界よりもはるかに高次界である心が、宇宙調和の原理の波に乗る。
そこに心の発揚、快なる喜びが、そして身は細胞が活性される。
自然治癒力の差異は、そのマイナスに向かって「教えてくれてありがとう」という感謝で向かうことの違い。
いやな人に、いやなことに、いやな病気に、いやな悩みに向かって「気付かせてくれて、ありがとうございます」と感謝してみよう。
2010年02月02日
現象は内からつくられる
[昨年12月の満月の日に取ったお月様、 お隣の青い光は星でも街灯でもありません。もう一つのお月さまなのです。]
このブログをお読みになっている皆様の中で、
「この世界って、私だけのために見せられているのじゃないかしら・・・・」と思っていらっしゃる方も、存外多いのではないでしょうか?
この世は自分のために演じられている「バーチャル世界」というといいすぎでしょうか。
そのバーチャルな世界の中で、主役の自分が、どう「真善美」の意識の種を蒔き、美しい花を咲かせられるのか。自己とは「地球進化」のお役目もあります。
三次元世界その全てが仮相で、意識がそれを認めたときに動き出し、好悪、美醜、愛憎の実態は仮相にはなく、全て自分の意識内にある。
主観は三次元の固定的な世界を見ておりますが、意識は自在で過去にも飛び、未来も探索できますから、目に映る三次元世界よりもはるかに高次ですね。
数霊でいいますと、ゼロから一(ヒ:霊)、二(フ:分)、三(ミ:身)、四(ヨ:世)と生まれてきました。
「身(三)」という三次元体をつくっているその大元は、「分(ニ)」という陰陽、男女、(+)(-)、愛憎、損得、・・・の相対の世界。
ですから眼で見えている三次元世界に陰陽あり、また意識の側にも好悪、美醜の「分(ニ)」の形質がある。
三次元世界を見れる次元は、四次元以上の界層だからこそ、その視点から見ることが出来る。したがって霊止(ひと)とは四次元以上の存在です。
その霊止も大元は「ゼロ」から誕生して、「霊(一)」をいただき、「分(ニ)」の陰陽を頂き、「身(三)」という肉体を頂いている。
「霊(一)」というエネルギーの次元は、そこから「分(ニ)」という陰陽の次元を発したわけですから、数字的には小さくなっては行くものの、「霊」は創造主の次元により近く高次です。
さらに「ゼロ」の次元になりますと、そこは創造主の次元で、そこから「霊」が飛び出したのです。
その最高の高次元、古神道では天御中主大神の次元が、「ゼロ点」と目されます。
二次元の平面を見ることが出来るのは三次元の世界から見えて、二次元の住人にはその二次元世界は見えない。
同様に三次元を見ることが出来るのは四次元から見える。
四次元界を見ることが出来るのは、五次元界以上の住人でないと見えない。
これらの住人の意識は、霊止(ヒト)それぞれの意識覚醒の違いである。
数霊でみると、逆に数位が少ない方向が高次で、大極が「ゼロ」なのです。
そこから一(霊)、二(分)、三(身)、四(世)、五(意)、六(睦)、七(成)、八(弥)、九(凝)と宇宙世界が発展されてきた。
ゆえに小宇宙である霊止(ひと)の内側には、絶対界の「ゼロ」も存在している。
ただしそこまでの霊止の意識覚醒の違いはもちろんあります。
お釈迦様の意識次元と衆生のそれは違う。
[これもお月様の写真、一昨年の小田原の大雄山に籠った時に撮った写真です。]
量子力学の世界で、ノーベル賞受賞のニルス・ボーア博士が粒子(電子)存在の不確定性をアインシュタインにぶつけてみた。
ある時刻における物質の位置と運動量はただ一つに決まっていない。
つまり一つの電子は、それが計測される以前は、その電子自体があらかじめ場所が決定されてはいず、宇宙の何処に存在してもいい。
つまり粒子の塊である物質とは、決定されない位置やあいまいな速さで運動しているという。
それが素粒子学上の素粒子のふるまいなのですが、考えてみると実に大変なことでなのす。
物質はそこにあるようで、誰も見ていなければ、どんな計測もされていなければそこには確として存在していないということなのです。
これが数学をベースにした素粒子物理学の答えなのです。
たまたま誰かに確認されたから、そこに動かしようもなく「在る」という後天的な存在なのです。
これは主観認識が無ければ、素粒子の塊である三次元の現象は不確定な存在であるということと、同じことになってしまいますね。
「君はあの月が、誰も見ていなければ存在しないとでもいうのかい(アインシュタイン)」これがアインシュタイン(E・S)とニルス・ボーアのコペンハーゲン論争の主題であったのです。
アインシュタインが指差す「あの月」が誰も見ていなければ、存在しないのか、といわしめたは、素粒子学の電子の不確定なふるまい、そのボーアの理論にケンカを吹っかけたのですね。
でも現在ではボーアに軍配が上がっております。
存在の確認という操作は、「意識」であって、意識は全宇宙にコンタクトできますね。
意識は瞬間に月の裏側にもいけますし、またはるか冥王星にまで飛んでいける。
また日常のおしゃべりが過ぎて、時を忘れると、そこに「時計」は存在しません。
すると意識という内側の世界が、外側の世界を確定して、時計を発見してはじめて、時間認識が出来る。

[これもお月様の写真。おそらく意識がカメラを通じてお月様と共鳴現象を起しているのでしよう。]
こうしたことから、どうも意識という内側が、外側の現象を創っているといえなくもない。
ならば、善い意識が良い現実を結び、悪い意識が悪い現実を創るということになるようです。
富士山を見て、雄大だと想う瞬間から、周囲は雄大に動いているように作用する。
富士山を見て悲しいと想う瞬間から、周囲は悲哀に暮れなずむ。
暗い場面、暗く悲しむ場面に遭遇したとしても、自らが明るい言霊と明るい態度で臨めば、場は明るくなる。
つまりこちらの意識、内側から外の世界が変化し意識に応じて作られているといえるののす。
世の中あまり、善いニュースばかりではありません。
そこに自分の意識(言霊)や「祈り」という神様から頂いた高次な働きを、今まで以上に活用して、歪んだ現象世界を自分の周囲から変えてゆきたいですね。
2010年01月20日
受け霊(精神と物質の融合)
[元旦の湘南からみた富士山 心と身、精神と物質は 不二一体:写真 塚田夢笙さん ]
アワ路の(ア)・カ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ・ラ・(ワ) 八子音は開動(カ)・共生(サ)・拡大(タ)・凝縮(ナ)・建設(ハ)・中道(マ)・感謝(ヤ)・進化(ラ)の素型(すがた)である。
精神文明の完成は、ミヨイタアミラ国(ムー)以前の出来事と思われる。
その完成体は、言霊宇宙曼荼羅として火具土という神人によって粘土板に記されたのであろう。
一万二千年前にムーが沈没して以後の後代、再び地球の修理固成と国つくりを経て、やがて銅鏡にもその宇宙ロゴスの全景が前時代の形見として刻まれていった。
それがヤタの鏡である。
物質構成の素粒子フェルミオンや、エネルギー関連の素粒子ゲージボゾンから陽子、中性子、中間子、電子そしてそれらのエネルギー場が構成される。
ココロもそのようなものによって構成される。
宇宙と融合し変化してコロコロと、とどまらないココロを、把持固定してそのココロの内容を五十音の要素に表現することができた。
「ワレおもう」という自覚作用と、創造作用、共生作用が、仏陀の三菩提一切種智である。
人類という種をならしめている最高の智という意味が「種智」である。
三菩提は自覚作用、創造作用、共生作用の三要素である。そしてココロの全景を構成する要素、つまりココロという霊的エネルギー素子が言霊五十音である。
ロゴスひとつ一つの音霊(オトダマ)は、磨けば光る玉のように比喩もされた。即ち神意を探れば永遠に光る「玉」がその意味である。
言霊音図を右脳・左脳の全霊と統覚をもって解析し、その全局の光智を「神なるわが意識の裡なり」と判ずるのは剣の作用である。
即ち人智判断である。
無蒙ではなく痴鈍でもなく純正判断智が剣である。
鏡は世を照らし、わが身の意識を物質界に移し反映すという言霊五十音図に他ならない。
下津磐根のイ段、 キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・イ・リの八音 すなわち勇気・純正・信念・調和・創造・愛・希望・進化の宇宙八大弦律をもって、この八の字をかぶせて八咫鏡、八坂の勾玉、八握剣という三種の神器が誕生することになる。
それは、ムー沈没以降、約2660年前の神倭磐余日子(神武天皇 神ヤマト126代の初代)が台頭するまでの間、ウガヤフキアエズ朝時代に創作された神器である。
12000年を越える遥か以前の「精神文化の完成」とその普及は、ムーと陸つづきの畿内はもとより、往時の全世界を駆け巡った。が、ムー大陸の沈没以降、世界の地表は見る影も無くその姿も変り「精神文明」は遺跡と化した。
汚泥と失われつつある心の源器を前に、再び「精神文明」を再構築しようとするヤマト源流民族、ウガヤフキアエズ王朝(神倭王朝の前時代)も生き残った。
その9000年間のあいだに、本邦は天皇頭領指揮による再構築に任せ、荒廃した四方津(ヨモツ)世界を再復興しようと動いた皇人も出た。
それがスサノオである。
「精神文明」が遺跡と化した西方の地も、ムー没後、シュメール文明を経て約8000年という長い時間をかけて、西欧の地も固成され神智学も復興されていった。
後年、新たな智学も出た。それが物質主義である。現代物質主義の出自は今から4000年前のことである。
現代科学の発祥はキリスト教に源点を見ることができる。
もとより旧約聖書、モーゼが首魁、いやモーゼの神、YHWHすなわち須佐鳴こそその真の霊的首謀者である。
基教は後に、西暦10世紀前後から錬金術を産み、さらに後代数多くの哲学者兼科学者を生み出した。
ニュートンは哲学者であり同時に神秘学者である。
彼は主の教えの根底は揺るがさないと教団側と密契した科学者である。以降 西洋では物質科学主義が脈々と育っていったのである。
物質を裁断し分解して素粒子にまで破砕しその成因をもとめる。
その神界の大統率者は須佐鳴である。
須佐鳴こそ、天照皇神以前の歴代天皇が築き上げてきた「精神文明」とは別の、もう一つの大事業「物質文明」の統率推進者に他ならない。
ユダヤの血脈はYHWHより発し、その物質の極を求める姿勢は「シオンプロトコール」に明らかにされてもいる。
後のヴェニスの商人、今日のロスチャイルド、イルミナティー王立連合、ルソン助三郎の霊的末裔、三井鴻池そして現代三井住友財閥しかりである。
物質を分解し、合成し、競合し、はては精神の競合である戦争という熾烈な競争を通じ、科学競争の中からまた新技術が生まれてきた。
「物質文明」は、1万2千年前の大破壊による人類の毛皮、穴倉生活への再投入から、近代にいたっては快適なベッド生活、豊かな生活環境へと変貌させたのである。
物質主義の歴史は、冨の収奪構造から公共蓄積と配分へと緩やかに変化してきた。
同時に物が全ての全てという精神の荒廃をも今日にもたらしてきた。
現象を物質論から追えば、破壊と分解がなければ科学はなりえず、この科(トガ)学なければ物の増殖、大量生産、大量高速移動はなしえない。
一方、生命という本質学でさえ、西洋の地では物質的EBM医学(エビデンス ベースド メディスン)を育ててきた。
肝臓をきっても他と挿げ替えれば使えことができる「人間機械部品論」がそれである。
しかし須佐鳴の真意、YHWHの真意は其処にあらず、「精神文化」を補強するためにあえて、歴史を物質学にシフトしていったのである。
宇宙の大真理は「精神文化」の開花によって超古代明らかにされたが、もう一方からの歩み寄り「物質解」からも、宇宙真理は同一なはずである。
真理はユークリッド幾何学で解いても代数微積分で解いても同一解である。須佐鳴の提案は、真理とは紙の裏表と同様に、どちらから歩んでも同一であらねばならないという真理の補強なのである。
しかもその「精神文明」を言霊とともに日出ずる東の弧島に原型の陰をとどめ、西洋の地に「物質文明」の卵を植え付けた。
これが神の経綸である。
竹内古文書によれば須佐鳴は「須佐鳴月読」と固有の一人称であり、「天照坐皇命」に別れを告げ、四方津国の再構築に赴くとしるされる。
精神と物質の二極構造は、天照と須佐鳴の二極に相似象として反映されている。
ユダヤ民族の使命はアインシュタインに見られる科学と 、イシヤの末裔に見られる物質覇権主義である。
しかしその「物質文明」もモーゼ以降4000年の歴史をかけて、20世紀末に終焉を迎えてきた。
DNAの研究が、心の研究へとシフトしてきたように、物質産業構造も、精神・物質融合構造へとシフトしてき始めたのである。それが21世紀である。
ヤマト(精神文化)とユダヤ(物質文明)との融合の地は、モーゼが予言した「日いづる東方の孤島」しかも物質と精神の不二(富士)一体の聖地であらねばならない。
2013年富士の裾野で「受霊の儀式」があろう。
言霊五十音の真意を知ってか知らずか1億3千万の全ての民がその宇宙曼荼羅、アオウエイ言霊五十音を諳んじている。
日本というその国の民族が、純正意識に覚醒し『われ神なり』との意識と行為で世界に発信することが、新しい第三の融合文明の大前提なのである。
追記:1月23日の講演 「鈴木俊輔の古神道講座」http://subtle-event.seesaa.net/archives/20100123-1.html はまだ残席あります。
2010年01月11日
宇宙の眼

[NASAでしたか新惑星の公式の発表写真ですが、まるで神の目見たいですね]
この目に見える「カタチある宇宙」は、宇宙全体の総エネルギーのたった4%とNASAは計算しております。
見えない宇宙、ダークマター(見えない物質)や、ダークエネルギー(見えないエネルギー)は宇宙総エネルギーの96%も占めているのだそうです。
ですから、心のエネルギーも含めて、5次元宇宙や神界や併行宇宙、そして地獄界もありましょう、これら実に様々な眼では確認できない宇宙があるのですね。
なぜ「カタチがある宇宙」に、私たちは居るのでしょう。
きっと「自他の分別」をしやすくするからなのでしょう。
自他の分別からまず他人を比較し、「自分」の認識を学びやすいからなのでしょう。
でもそれって、「自他分離」や「自我我欲」を取り込みやすいですから、かなり危険なことですよね。
ここが入り口のようですね。
よく考えてみれば、そうした「カタチある宇宙世界」に敢えて私たちを存在させて、より高次な「共生」や「万物融合」や「われ個にして全」をやがて看取させようとする大いなる計らいがあるのです。

[ヴィトルヴィスの人体図、この五大のカタチにも、アオウエイの五母音も、手足の五指にも大きな意味合いがありますね。1月23日に型霊のお話もさせていただきます]
やがて自分の学びの中に、多くの存在が一様にその「カタチの世界」に滅びもせず自分と一緒にずっと居るのですから・・・・・自他の同時存在、共存がみえてくる。
からだの細胞も60兆個ありますが、一つひとつの細胞さんたちは喧嘩もしないで、自律して、それでいて協働し全調和が取れている。
此処に気付いてくると「自」=「他」を学ばざるを得ません。
自分のカラダですら、多くの個という細胞の共生体なのですから。
カタチがあるから「私って!」という認識が出来ますし、もし心だけの世界ですと融合された「混合エネルギーの世界ですからはじめから「自」=「他」の状態。
ですからそうなると、そもそも自他の分別が出来にくいのです。
「カタチある宇宙世界」があるからこそ、自他の分別から、宇宙に存在する他を認め、やがて全調和へと気付かせる「全智」にやがて高まっていくというものでしょう。
カタチある宇宙世界に居ることは、自他を知ること。
そして自己の学びの何たるかを知ること。
さらには自他をともに生かしめる大調和宇宙の性質を知ること。
全てを見つめる個人の眼は、おそらく「宇宙創造神の眼」につながっているのでしょう。
個人の眼を通して、宇宙創造神は進化の多様性とより高度で美しい方向性を楽しんでいらっしゃるのでしょう。
[東京三田の 元神明神社さん。1000年以上の歴史を持ちますよ。浜松町にある芝神明神社の元地といわれてます]
「カタチある宇宙世界」に存在するわたしたちは、「宇宙の眼」を通して、同時に「存在を楽しむこと」を学んでいるのでしょう。
「カタチある宇宙世界」の全てを見、知るということは、その自分が「与える側」でもあるということなのでしょう。
2009年12月30日
夜明けの晩
[台北市内の龍山寺 見事な龍の柱ですね。龍は國常立神様の象徴です ]
「鶴」は天空を翔ける「霊」の象徴です。
この日本が天津霊継ぐ民族ですから、「鶴」に見立てた霊性の国が日本。
一方、「亀」は水性で、その亀甲紋からも、氷の結晶からもダビデ六芒星を意味しますので、「亀」は物質性を意味します。
ですから「鶴」という霊性と、「亀」という物質性を統(す)べるというのは、この日本という霊性民族と、物質経済社会のバランスが取れて、物質至上主義、貨幣経済偏重から少しでも足抜けして、調和の取れた霊主体従にシフトしていくということなのですね。
この鶴と亀が統べる夜明けが、来年の平成二十二年の富士(22)の年、フトマニの年であって欲しいのですが、その夜明けの晩とは、夜明け前のことですから平成二十一年の大晦日。
さてこの晦日の夜は、どんな霊成型を見せてくれるのでしょうね。
皆さんも、鶴と亀、または六芒星と、鶴の五芒星や桜のカタドリがこの12月の暮れにお近くで発見されるかもしれませんね。
そういう意識で周囲を見ていくと、自ずと自己覚醒も早まるというものです。
今年の6月には数度目の日本人の意識覚醒がありました。
ですから皆さん、朝昼晩とも眠かったはずですよ。
眠ったほうが、顕在意識の外乱を受けないで静かに変容して行きますのでね。
[自宅前の路上で撮った12月2日の満月の月 もう一つのお月様は青く輝いておりました。]
この12月初頭からの神聖DNA変化も、多くの方が体の変調を直接感じた方もいらっしゃると思います。
12月2日の満月からも大変なエネルギーが舞い込んでまいりましたね。
もちろんいい意味でのエネルギーですよ。

[日本列島のレイライン :なかでも 剣山ー五葉山ラインは東北にのびる龍骨の基本のライン]
四国に剣山があります。ここから一直線に東北に向かって地図上に線を引きます。
すると淡路(アーワ路)の「一の宮」を通って、神の戸(神戸)を超え、鞍馬を過ぎる。
さらに琵琶湖の竹生島を通って白山をかすめ、岩手県の五葉山に抜けます。
このア(純粋悟性)、オ(経験知性)、ウ(勇気判断)、エ(ヒラメキ、叡智)、イ(大生命意志)の五用山が東北つまり艮(うしとら)の、現世界でいう五葉山の地。
岩手のそこは、「艮の金神様」の幽閉地になっていたのですが、早やここ数年前には解放して、別名、國常立大神様は、榛名神社、御嶽神社、主として全国の山岳の拠点に散在し、各地で「霊主体従」の波動を送っております。
剣(つるぎ)とは「鶴」と「亀」のことで、「ツル」と「キ」なのですよ。

[剣山 奥の院、そこでは大岩を遥拝します]
この死国から、現世界を見つめなおすと、物質界その虚像の中にむなしい執着の影が見えます。
その死国からの眼差しでなく、現象物質界の五葉山をはなれて、國常立大神様による霊的なア・オ・ウ・エ・イの五用がなされていく。
ワ行の五葉はワ(肉体自己)、ヲ(水)、ウ(塩・ミネラル)、ヱ(炎)、ヰ(物質地球)の物質界五大はア行に徐々にシフトする。
フトマニ音図、アーワの繋氣(つなき)で、これまでのワ行の物質性が、ア行(アオウエイ)の霊性五段に、よりシフトしていく。
トホカミエヒタメも、その八つ季節性(現代では春夏秋冬ですが古代は八季節)、そして八つのチカラの方向性、凝縮、拡張、伝播、相変化、結晶、旋回、相互対流、放射から霊的なる次元のシフトへ。
すなわち「純正」、「信念」、「希望」、「創造」、「愛」、「勇気」、「進化」、「調和」の八玄律を響かせ始める。
あらためて鶴(霊)と亀(身)、五芒星と六芒星、火と水、「見えない世界」と「見える世界」の偏重のないバランスをはかりましょう。
妻は夫をこれまで以上に優しく見つめてみよう。
夫はこれまで以上に妻に感謝の心で接しよう。
霊(ヒ)と身(ミ)のかかわりと、その正しいバランスを見つめなおしましょう。
ヒミの子らは、世界の世直しの子。
そう宣言して、みなこの世界に誕生したはず。
平成二十一年の大晦日、「夜明けの晩」を静かに「宇宙の進化と調和」を祈りましょう。
どうぞよき寅のお年をお迎え下さい。
トーラ(律法)は、大晦日の夜が明けてから出て参ります。
2009年12月25日
平成二十二年「フトマニ」の年へ(その2)
≪この文章は 12月23日 掲載のブログより本章に続いております≫

[仏界の11面観音様は さまざまな実相界をお見せになる。その実体は宇宙根源神 天御中主大神]
私たちは、この宇宙から生まれ、ビッグバンゆかりの元素をこの体内に宿しております。
また私たちの両親のそのまた親をずっと辿れば、大宇宙を作った神様に突き当たります。
したがって、神様が創った宇宙大法「フトマニ」とは、誰しもが己の内に秘めているのであって、真理への完成体の道(邇)は、魂に刻まれているということになります。
二十二を「フトマニ」と読んでみました。
「二」とは天・地であり陰・陽です。
己はその天・地を見、自分から見た客体である天地、陰陽を知る主体であり、「統」つまり数霊「十」の完成体それこそが本質自己。
そうした本質自己が、爾(なんじ)の本質の道(邇:に)に真理の間(ま)にはいっていく。
麻邇(まに)とは、天と地の間(ま)にあって、真理へのみち(邇)、魂の本道のこと。
以上を整理すると、天の理と、地の理の天地両者をつなぎ、真理の完全体を導くのは霊止(ひと)の役割であって、「フトマニ」とは魂(直霊)の道のこと。
その御血(みち)は大神から魂の中心である「直霊」(なおひ)につながれている。
もちろん天津霊継民族の誰も言霊五十音は表層的に使いこなしております。
俗に、「フトマニ」とは焼いた鹿の肩甲骨の焼き割れのカタチから未来を占ったり、亀の焼き甲羅の占いである亀卜にあらず。
「フトマニ」とは大宇宙生命体の理法がそれに当ります。

[フトマニ音図 : 中心はアウワ、次の外輪がトホカミエヒタメ、さらにアイフヘモウスシの輪と続き、いまでいう言霊五十音と「ン」の51音]
数学論も人生という道も誤った理法にかなわない方向に行けば道を外す。
そして理法にかなわずば、堂々巡りを繰り返す。
ホツマツタエによれば図のような言霊音図こそが「不斗麻邇」と説く。
図の中心のアウワは、霊体であり精神の吾(ア)と肉体の我(ワ)がビッグバンの中心エネルギー(ウ:宇宙祖神)の産霊(むすび)でつながれている。
次の輪のトホカミエヒタメは國常立神の作用、アイフヘモウスシの外輪は國常立神の子神の作用で、太陽系そして地球が修理固成され、やがて大気、水、光、熱などが生成された様子を指す。
この言霊音図の細部は「霊止精神の内容」でもあり、一音ごと精神活動の重要な「言素」である哲理をさすのです。
即ちこの言霊音図の一音一音が神々の御名であり、理法哲理そのものなのです。
個人的には、この言霊音図がのちに「ヤタの鏡」にデフォルメされていった様に思います。
人間は確かに主体性を持って、家庭に社会にと御用をし、魂の本性は「世のため人のため」でうごいているはず。
ですが人間はその主体性や主観を発揮する以前に、「宇宙に生かされている」のですから、宇宙大法の中にあって、その個性のみ進化するようになっているのです。
霊止(ひと)は思念の中で様々な神仏を思い描くことも出来ます。
もちろん基教、回教、仏教さまざまな教えもあり、その教えの神は様々ですが究極には元一つ。
それを宗教では様々な角度から、その宗教の視点から、源祖神の一部分を見ているのでしょう。
神は元ひとつ。
人間は、日常生活で行動し思念する個性の発揮以前に、見えない精神界、見える物質界を融合させた世界で生きる存在です。
せわしい物質経済社会に取り囲まれて生きておりますが、その職場の辣腕社長の激よりも、仏典経文のほうが劣っているとは思えない。
その仏典経文の内容よりも、大宇宙に生かされている絶対事実が何よりも優先するはず。
「霊止」は肉体自己の発揮や、自他の認識から発する自主自律それ以前に、大宇宙という「絶対他力の大愛」の中に生かされているのです。
イザナキ(氣)という霊体(精神系)は、天ノ御柱(あめのみはしら)を中心に左回転でまわり、ついでイザナミ(身)という物質体は、天ノ御柱を中心に左回転でまわり和合する。
身が先行し、霊が従になると「ヒルコ」となって、思念体はまとまりが付かない。
和合とは陰陽、夫婦の和合でもありますが、「物質と精神の和合」と見たほうが広い解釈で、加えてその時系列は「霊主体従」なのです。
中心の御柱(みはしら)とは人体でいえば脊柱であり、男も女も脊柱という同じ御柱をもち、それは天御中主大神にほかならない。
男女区別な、く等しく大宇宙創造神の「天御中主大神」を我が身に頂いているのです。
ここにも「霊止」は、天御中主大神という「絶対他力の大愛」の中に生かされて、御身の中心にあるその御柱の自覚が常に必要ということ。
ここが「フトマニ」の理解の入り口なのです。

[施無畏印 それは安心・安住への施しの大愛の印]
霊止は、大宇宙大愛の御柱(みはしら)を中心に男女の区別なく、等しくイザナキの右手(精神・波動性)と、イザナミの左手(物質・粒子性)を頂いているのです。
そしてその御柱を中心とした人生の中で、常に霊性(イザナキ)が先んじて「主」に回転して、ついで霊性の後から物質性(イザナミ)が柱を同心円に逆回転する「従」の関係にあるのです。
霊止とは、大宇宙の絶対愛の中に生かされ、その個体の行動原理は「霊主体従」が、すべての所業のカナメであるということなのです。
これが「フトマニ」の次なる理解です。
精神(波動)と物質(粒子)は不二一体。
物とは意識の集中したもの、意識波動が集中して粒子化する。
粒子とはエネルギーの集中体。
どちらも実相の一側面ですが、目では見えないこのエネルギーが、フトマニの神聖なるの美しい波動をともなわずば、霊止ののみち(邇)、魂の本道をはづれてしまう。
不二(22)の、まにまに見え隠れする実相と虚像。
来年、平成二十二年を目前にふと虚空を見上げ、「フトマニ」を判じ採った次第です。
さて、平成二十二年 元旦は晴れるかな?
きれいな不二(富士)が見えるといいですね。

[仏界の11面観音様は さまざまな実相界をお見せになる。その実体は宇宙根源神 天御中主大神]
私たちは、この宇宙から生まれ、ビッグバンゆかりの元素をこの体内に宿しております。
また私たちの両親のそのまた親をずっと辿れば、大宇宙を作った神様に突き当たります。
したがって、神様が創った宇宙大法「フトマニ」とは、誰しもが己の内に秘めているのであって、真理への完成体の道(邇)は、魂に刻まれているということになります。
二十二を「フトマニ」と読んでみました。
「二」とは天・地であり陰・陽です。
己はその天・地を見、自分から見た客体である天地、陰陽を知る主体であり、「統」つまり数霊「十」の完成体それこそが本質自己。
そうした本質自己が、爾(なんじ)の本質の道(邇:に)に真理の間(ま)にはいっていく。
麻邇(まに)とは、天と地の間(ま)にあって、真理へのみち(邇)、魂の本道のこと。
以上を整理すると、天の理と、地の理の天地両者をつなぎ、真理の完全体を導くのは霊止(ひと)の役割であって、「フトマニ」とは魂(直霊)の道のこと。
その御血(みち)は大神から魂の中心である「直霊」(なおひ)につながれている。
もちろん天津霊継民族の誰も言霊五十音は表層的に使いこなしております。
俗に、「フトマニ」とは焼いた鹿の肩甲骨の焼き割れのカタチから未来を占ったり、亀の焼き甲羅の占いである亀卜にあらず。
「フトマニ」とは大宇宙生命体の理法がそれに当ります。

[フトマニ音図 : 中心はアウワ、次の外輪がトホカミエヒタメ、さらにアイフヘモウスシの輪と続き、いまでいう言霊五十音と「ン」の51音]
数学論も人生という道も誤った理法にかなわない方向に行けば道を外す。
そして理法にかなわずば、堂々巡りを繰り返す。
ホツマツタエによれば図のような言霊音図こそが「不斗麻邇」と説く。
図の中心のアウワは、霊体であり精神の吾(ア)と肉体の我(ワ)がビッグバンの中心エネルギー(ウ:宇宙祖神)の産霊(むすび)でつながれている。
次の輪のトホカミエヒタメは國常立神の作用、アイフヘモウスシの外輪は國常立神の子神の作用で、太陽系そして地球が修理固成され、やがて大気、水、光、熱などが生成された様子を指す。
この言霊音図の細部は「霊止精神の内容」でもあり、一音ごと精神活動の重要な「言素」である哲理をさすのです。
即ちこの言霊音図の一音一音が神々の御名であり、理法哲理そのものなのです。
個人的には、この言霊音図がのちに「ヤタの鏡」にデフォルメされていった様に思います。
人間は確かに主体性を持って、家庭に社会にと御用をし、魂の本性は「世のため人のため」でうごいているはず。
ですが人間はその主体性や主観を発揮する以前に、「宇宙に生かされている」のですから、宇宙大法の中にあって、その個性のみ進化するようになっているのです。
霊止(ひと)は思念の中で様々な神仏を思い描くことも出来ます。
もちろん基教、回教、仏教さまざまな教えもあり、その教えの神は様々ですが究極には元一つ。
それを宗教では様々な角度から、その宗教の視点から、源祖神の一部分を見ているのでしょう。
神は元ひとつ。
人間は、日常生活で行動し思念する個性の発揮以前に、見えない精神界、見える物質界を融合させた世界で生きる存在です。
せわしい物質経済社会に取り囲まれて生きておりますが、その職場の辣腕社長の激よりも、仏典経文のほうが劣っているとは思えない。
その仏典経文の内容よりも、大宇宙に生かされている絶対事実が何よりも優先するはず。
「霊止」は肉体自己の発揮や、自他の認識から発する自主自律それ以前に、大宇宙という「絶対他力の大愛」の中に生かされているのです。
イザナキ(氣)という霊体(精神系)は、天ノ御柱(あめのみはしら)を中心に左回転でまわり、ついでイザナミ(身)という物質体は、天ノ御柱を中心に左回転でまわり和合する。
身が先行し、霊が従になると「ヒルコ」となって、思念体はまとまりが付かない。
和合とは陰陽、夫婦の和合でもありますが、「物質と精神の和合」と見たほうが広い解釈で、加えてその時系列は「霊主体従」なのです。
中心の御柱(みはしら)とは人体でいえば脊柱であり、男も女も脊柱という同じ御柱をもち、それは天御中主大神にほかならない。
男女区別な、く等しく大宇宙創造神の「天御中主大神」を我が身に頂いているのです。
ここにも「霊止」は、天御中主大神という「絶対他力の大愛」の中に生かされて、御身の中心にあるその御柱の自覚が常に必要ということ。
ここが「フトマニ」の理解の入り口なのです。
[施無畏印 それは安心・安住への施しの大愛の印]
霊止は、大宇宙大愛の御柱(みはしら)を中心に男女の区別なく、等しくイザナキの右手(精神・波動性)と、イザナミの左手(物質・粒子性)を頂いているのです。
そしてその御柱を中心とした人生の中で、常に霊性(イザナキ)が先んじて「主」に回転して、ついで霊性の後から物質性(イザナミ)が柱を同心円に逆回転する「従」の関係にあるのです。
霊止とは、大宇宙の絶対愛の中に生かされ、その個体の行動原理は「霊主体従」が、すべての所業のカナメであるということなのです。
これが「フトマニ」の次なる理解です。
精神(波動)と物質(粒子)は不二一体。
物とは意識の集中したもの、意識波動が集中して粒子化する。
粒子とはエネルギーの集中体。
どちらも実相の一側面ですが、目では見えないこのエネルギーが、フトマニの神聖なるの美しい波動をともなわずば、霊止ののみち(邇)、魂の本道をはづれてしまう。
不二(22)の、まにまに見え隠れする実相と虚像。
来年、平成二十二年を目前にふと虚空を見上げ、「フトマニ」を判じ採った次第です。
さて、平成二十二年 元旦は晴れるかな?
きれいな不二(富士)が見えるといいですね。
2009年12月23日
平成二十二年「フトマニ」の年へ(その1)

[一年ってなんて早いのでしょうね。そう来年は、平成二十二年ですよ]
21世紀に入って間もない西暦2002年、つまりその年は日本大和朝での皇紀2662年にあたります。
2002も2662も右から読んでも、左から読んでも同じ数霊で、一種の回文の年でした。
「なかきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」
長い回文ですが、これも右から読んでも左から呼んでも同じ文。
深い意味あいがありますね。
物質科学を究理して最後の最後まで追及すれば、やがてそれは真実に突き当たる。
また精神主義をトコトン追求して究すれば、それもまたやがては真実に突き当たる。
真実とは一枚の紙の裏と表の関係のように、科学からも精神からも、どちらから辿ってもやがては同じ真実にたどり着く。
また「永き世の・・・」の回文は物質原理にもてあそばされていたの時代から、「魂の目覚め」へと気付かせます。
論者はこうした回文もメビウスのループのような繰り返し訴え続ける不変の真理のような印象をもっておりました。
とりわけ2002年も2662年も「物質世界の膿だし」で意味のある年だったと思います。
前年の2001年9月 物質主義の象徴のようなツインビルが崩壊しました。
一昨年のサブプライムローンの破綻とリーマンショックから、資本主義の解体の兆しを見せてくれました。
大きな意味で「拝金主義」、「物質経済至上主義」が崩れ始めてきたのです。
2009年には、この日本も自民55体制の崩壊がはじまり、亜垂敷世が着々と進んできていることが分ります。
すでに2009年の丑年から来年の寅年につづく丑寅の御用。
艮(うしとら)の金神 國常立大神さまの大建て直しはいよいよ本格化するでありましょう。
それは精神の大建て直しなのです。
モノの豊かさから、心の豊かさへの価値観の変化。
物質経済にどっぷりつかった国民には、様々な意味でこれでもか、これでもかと「魂の覚醒」に揺さぶりを掛けるでしょう。
[丑年から、来年は寅年と続く、丑寅の御用はいよいよ頂点に!]
年明けの平成二十二年を、数霊的に「フトマニ」と読みました。
元来 「フトマニ」とは、古事記の国産みの「不斗麻邇(ふとまに)」の原説に由来します。
言霊の音読みを「不斗麻邇(ふとまに)」と当て字をしたのでしょうが、斗はマスであり秤ですから量ることの出来ないの深い真理。
麻は「真(ま)」でもあり真理の道とでも読めましょう。
また古くは麻(あさ)とは「ア」から「サ」への言霊の道、ア~サであって、「ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ」のア段(現在のアカサタナハマヤラ段)の原型界「ア」→「サ」をさします。
「ア」とは精神の「吾(われ)」であり、それが主体となって高天原(タカマハラ)を成立 (ナ)させ、弥栄(ヤサ)を呼び、「ワ」(和)へと誘う魂の本道の表現なのです。
こうした当て字からもその深い意味合いが隠されているのですが、フトマニとは『宇宙大法』という意味です。
(次回につづく)



