2010年08月30日
願いから祈り、そして感謝へ
[山宮浅間神社 とりたてて拝殿も無く、神石のみ。実に素の気配で清々しいですね。]
スタンフォード大学のブルース・リプトン博士はこのブログでも数回紹介させていただきました。
彼は基幹遺伝子の研究を20数年以上の長きにわたって従事されてきました。
彼の研究のポイントは、意識や言霊が遺伝子を変えるということです。
そのメカニズムは、想いという情報が脳内ホルモンを分泌させて、それは血中に広がり、体内の全細胞の細胞膜を介して遺伝子にスイッチが入る。
つまりそこで新しいたんぱく質が形成されるというもの。
これは想いが、現象化するという生命活動の根本を実証しているもので、なによりも私たちの肉体系に想いが遺伝子レベルで影響を与えているということなのです。
また親から頂いた個人の遺伝子が、死ぬまで自分の生活を支配するのでなく、自分の想いのほうが遺伝子をかえるということなのです。
論者は最大の祈りは、感謝だと主張しております。
つまり宇宙に自分がいることの「在り難し」が原点で、いのちを頂き、生かされているということ。
そこに一切が集約されるように思います。
祈りの、個々のエレメントである「願い」という心の作用は、直面した危機にかくあれという願いであったり、病からの解放や、受験の合格や、ボーナスの額であったりします。
ですが人類のこの「願う」という神様から与えられた心の自由性を、地球人類全般に向けた「調和の祈り」に向けたら如何でしょう。
人々の願いは、それぞれの環境独自のものであって、他人から指図される性質のものではありません。
ですが利益中心の願いがこれまでの願いの中心で、それが物質至上社会を増長させてきたのです。
まず願いから祈りにむけて行かなければ、社会は変わりません。
日本人みたいに、初詣にはおよそ90%以上が神社におまいりに行くという民族はなかなか世界中にありません。
勿論、日曜礼拝を欠かさない敬虔なクリスチャンはいますが、山間民族や熱帯民族を含めた全世界では、日本は祈りの国と見られてもいいでしょう。
その日本が世界の恒久平和や、持続性ある豊かな地球を責任ある人間として希求する祈りを、すべての日本人が同一の時間、同一の土俵で祈っては如何でしょうか?
土俵とは日本古来の聖地である神社です。
神社こそ己の心を映す鏡が必ずあるのです。鳥居をくぐる参道は、母の産道への回帰であって、「素の元」にかえるということ。
己の「魂の素」を神社の鏡に映し、また感謝を豊斎する。
日常でも宇宙の摂理に沿った祈りと感謝であれば、大宇宙は味方になってくれる。
[神木には霊気が宿る。ヒトよりもずっと長生きですし、人間のように他人をののしったり倒すこともない]
すでに『公園に愛と感謝のセレモニー』を実施して、大地さんに「ありがとうございます」を毎月一回実施しております。
次回は川口哲史さんのご案内で9月4日(土)清澄庭園です。
自己の欲求にもとづく「願い」でなく、願いを「人類と地球への祈り」に換え、その祈りの極地である「感謝」に止揚する。
ただ大地や地球に感謝する。そうしたことを日本人全員が、やったら凄い力になるはずです。
祈りの力は、大変なエネルギーなのです。特に日本という天津霊継ぐ(あまつひつぐ)民族は命の力が絶大で、だから日本が世界の意識のヒナ型とも言われているのです。
日本人の感謝の意識が、世界を変えていくのです。
祈りとは「持続性可能な地球」つまり愛と調和に満たされた地球規模のほうが、自己利益から愛他にシフトする。
愛他の祈りの根底にあるのが、「感謝」ですから、「地球さん、ありがとうございます。緑豊かな素晴しい地球をいつまでも輝かせてください。ありがとうございます」
いかがでしょう、今ここに生きている日本人全員が一斉に、「地球に感謝する」ことをしたら、地球上の飢餓、貧困、争い、乱獲さまざまな不調和は、霊力理(ヒカリ)と共に消えていく。
2010年08月07日
こだわりを捨てる
[素足で立つと、執着の気がスット 抜けて行きますよ。お試しあれ。足裏に意識を!]
お釈迦様が、若きシャカ族の王子の時代に自分の、妻と息子を捨ててカピラバーストの城を抜け出した。
それは人間、生老病死が常に付きまとい、とりわけ「生」の中でも、なぜヒトを騙したり、愛憎があったり、時には殺し合いもあったりする。
そんな、惨たらしい世の中にどうしてなっているのか、その真実を求めどう生きたらいいのかを悟るため。
やがて釈迦は苦難の行の後に、バランスこそ「生の本元」とし悟りを得て、八正道を見出します。
その覚醒で、本名ゴータマ・シッダッタが大釈迦となりました。
惨たらしい世界とは、人間のこころ、それが作っていたという真実にきずくのでした。
本来の世界は闘争なく、分離無く、融和の純正大自然界。
つまり、人の心の闘争破壊が最もおおきな爆弾ですが、その闘争と破壊をもたらす元の心が「執着」。
この執着を簡単に言うと、「こだわり」ということになります。
心が引っかかって、動かない様子です。
古神道ではつねに「中今(なかいま)にいきる」ことを主軸として、善も悪も過去にとらわれず、今この瞬間のみををイキイキと生きることを主張します。
ですから、お釈迦様の悟りの中に生きるということと同じことになるようです。
多くの方が、過去にこだわることに、実に大きなエネルギーを消費してますね。
[山宮 浅間神社 今年は木花様のご活躍の年なのですよ。この山宮も実に素で、気持が良いですよ。 富士元宮の西冨士道を挟んだ反対側にあります。個人的には本宮より断然波動が高い ]
「全国うまいもの紹介」などで、ラーメンやら地方の郷土料理の紹介番組があります。
そこではナレーションで「こだわりの店」とかいいますが、「伝統の味を崩さない」という表現のほうがいいように思うのです。
こだわりは、頑なでとらわれの心ですから、マイナスのイメージが私にはフツとわいてきます。
人生、「こだわりを捨てる」というところが大変大きなポイントではないでしょうか?
「こだわり」があると、そこには得られぬ不満の陰が常につきまとう。
お釈迦様も生身の人生最大の課題は「執着」と看破されている。
物も金も何にも要らない、最低限の衣食住で、もういいや!と思いきった心根。
そうしたモノにとらわれない心の氷解が、硬く歪んだ病気の細胞をすら自然修復する。
モノに捉われない「本心の自分」に帰ろうという自律の心が本当に大事ですね。
「こだわりをどれほど捨てられるか!」、大病からの生還の重大なキーを一口で言うならこれに尽きるのではないでしょうか。
2010年08月01日
観・理・知について
[河口湖浅間神社の大杉 自然は実に雄大で純粋すね。この大杉もこだわりなんぞ何もない ]
67億の人類が自分の本質は何かということに気づくことから第三文明は始まる。
つまるところ本質は「生命(いのち)」であって、生きているという自覚体である。
人間は肉体に乗っかる精神生命体でもあるが、その心という意識の本体は、もう一人の自分、魂、純正意識体である。
物質世界でワクワクうきうきしているのは心であり、愛することも充実や感動や喜びも心の世界である。
其処は物質世界でないから喜びは何グラム、感動は何センチという質量・長さ・容積・時間などの単位を持たない。
『霊主心従体属』なのである。
人は神の子であるから、本来なんでもできる。
そのこころの内側に神が住まう。即ち「観」こそが、一切を知りたもう。
己の心の本体こそが宇宙を把握している。
人生における一つの勉強知識を単に頭で記憶したり引出したりすることに終わらせず、その体験・知識を自然観、人生哲学にまで噛み砕いてとらまえる。
これが知識(モノ)から智識(心)への変化である。
一つの小さな智識の積み重ねが大きな自然の集合意識(魂)へと融合してくる。
その智識とは数学で言う公理に他ならない。
公理とは法則であって、ピタゴラスの定理と同様に「天に唾すれば己に返る」。
この不変公理を超えた世界に「観」がある。
「観」こそ公理の更なる無限の広がりを探求するものである。
人生は、「知」の競争社会で成り立っている。
全ての教育も「知」の記憶量で判断される。
その「知」も実に深みが浅い。
人生の知にしても、状況、出逢い、出費で汲々として毎日を過すものもいる。
科学は「知」からはじまって、せいぜいが「理」の深みでしかない。
「理」の奥は誰しもが持っている「観」である。
しかし多くのヒトは、それ(ワレ=神=自在)を知らず「知」に汲々として浅い人生をすごす。
「知」を与える場面は『最良にして最大の場面である』と看破すべし。
またその「経験知」を分別し、「理」に高めるのは霊の作用である。
崇高な霊意識体を「命(ミコト)」と大昔から言う。
このミコトの意識を深めれば「われ神なり」と知る。
「神」それは「観」である。
2010年07月07日
次元の変化
[6月25日 31度の暑い日でした。太陽にリングの虹が合ったのをご存知ですか? 写真の建屋は論者の家です]
もう今年の6月30日 で4回目の次元変化を迎えました。
一気に変わりますと精神に異常すらきたしますので、2008年から2年間に渡り徐々に変わってまいりました。
先の6月末での変化は、簡単にいいますと建前を考えることの放棄です。
つまりやりたい事をやれるように、「はいよっ」と背中を押される気配です。
同時にご家族の方も、好きなことをやったほうがいいんじゃないという、寛容の心が湧き出てきているはずです。
前号のブログ「もう無理をしない」でも書きましたが、やりたい事をやるなんて、皆に迷惑がかかるからとタタラを踏んでいたのでしょうが、周りは貴方が心配するほどの迷惑を感じることがなくなってきたのです。
ある意味で個人主義、ある意味で自立、ある意味で他人の尊重なのです。
そこには他人の笑いや笑顔が、自分を幸せだと感じ始めてきているのです。
[リング状の虹 6月25日 午後1時半ごろ 東京港区]
6月25日に見せた太陽には、写真のような丸い虹の輪が、かかっていましたね。
場所は東京の論者の自宅上空ですが、終日 曇り時々晴れで31度くらいの暑い日でした。
考えること、それは実はエゴにちかいのです。
考えることを放棄して、素直に直感に従うことがいいのです。
素直とは素の心です。
直とは直霊です。
さあ、今までやれずにいたことを、素直にどんどんやりましょう。
家族の方は貴方が思っているほど心配しません。
まだまだ眠い方がいらっしゃいます。
もちろん神聖DNAの変化は覚醒時には邪魔になって、睡眠時に邪魔なくDNA変化が可能です。
だから眠いはず。
そういう方は、どんどん早いうちから寝ましょう。
会社の時間で眠るわけに行かない方も、チャンスと見たら眠りこけましょう。
そのほうが結果として会社にとっても、素晴しいアイデアと指導性をもたらすのですよ。
皆さんも、コックリさんを見たら、微笑むだけにしましょう。
2010年07月05日
もう無理しない

[最近は太陽さんも、随分不思議な光を見せてくれてます]
おおよそ自分で戦って無理をしているから苦しい。
戦うということ自体、自他の分離ですから大調和という宇宙法則にスピンアウトして、心に大きなひずみがかかる。
加えて、戦っている自分を、戦っていないように見せかけると余計苦しい。
戦っている自分はみっともないから、自分さえもっと頑張れば、相手が悪いのにこれ以上逆らうと血を見るからこらえる、抑える。
こうした、犠牲心のコテ塗りやその自分を隠すから余計おかしくなる。
戦っている自分は分離。
これに輪をかけてその自分さえも隠そうとするから、分離の上に分離を重ねて苦しさが増すことになる。
無理している自分を、その肉体意識のまま「もっと頑張らねば・・・・」では当然、心のひずみが増す。
その歪からストレスの塊が湧き出てきてどうにもならなくなってくる。
無理している自分を、もう一人の自分から「貴方、無理しているね」と無理な状態をそっと認めてしまう。
相手方ではなくて、悩んでいる自分自身を見つめ、認めるのである。
受け入れる・認めるのが神の本質だから、肉体自己の無理な想念が、神の秩序の中にローリングされて好転へと向う。
時代は「もう自分の好きなことをやろう」と言う方向にシフトしています。
そんなことをすると家族に迷惑がかかるとか、貴方が思っているほど家族はそう思ってはいない。
時代は家族ふくめて、本当にやりたいことやろうという方向に変化したからです。
ヒトの心は常にゆれてる。
とりわけ日本人は世界の中の善人部類に入りましょうが、これまでは「仕方がない、世のしがらみだ」、「自分さえ頑張れば」、「絶対この人にはついていけないけどしばらくガマンしよう」等々。
「これだけしたのに・・・」とか、「・・・してあげたじゃない」、「・・・誰も私を手伝おうともしない」なんて自己保存の心ものこっていた。
ですが、さあこれからは「ほんもののご自分」を出しましょう。
2010年06月29日
二極分化の根っこ
[須走 浅間神社 ここは改修されてお色直しのあたらしい拝殿になりました。冨士とウ冠でないこともここの特徴ですね]
2010年 時代は急速に「菩薩界」と「修羅界」の二極化に入っていったように思います。
前者は、さらに進んで「神としての自覚」が広まりつつあるということです。
この修羅界を創るのは「悪いコトバ」と「内側を見ない表層的な意識」です。
今まで内側に意識を向けていなかったから、現象やモノだけに目を奪われていて、現物志向になっていくのです。
プレゼントや給料に向かって「サンキュー」とは言うものの、今の若者も大人の一部も送った相手の心に向けて「ありがとうございます」の言霊は薄く、ほとんどないのじゃないかしら。
巷に溢れる言霊乱れた子供達、青少年が大勢います。
コトバ乱れる若者たちは「俺って、親が勝手に産んだんだろう」と、手塩にかけて育てた親の愛はワレ知らず。
デンと道端に尻を下ろし、虚ろな目を空に向けていたのです。
自分の心の内面に意識を深く向けていなければ自分の本当の心はおろか、相手の心も見えてきません。
だから一緒に生きていてくれることの素晴らしさの言霊「ありがとう」はなく、自他を認め合う素直さの原点、「おはようございます」の言霊もない。
この生き生き感と、認め合いがないとやがて子供達は「赤の他人と自分,外社会の分離感」を募らせていくのです。
社会犯罪やイジメ現象の根幹が「受け入れる」、ここからの放蕩であったのです。
その社会病理が訴えるところの本質は、「受け入れる心」の醸成がまったくなかったこと。
「受け入れる」から初めて相手に対する「美しい言霊」が放たれるのです。
子供の時代から「見える世界」だけが真実で、かっこよく見せる外面の世界にのめりこんでいくと、大人になっても物質偏重主義に陥っていく。
心の感性は測りようがありませんから、余り評価の対象にはならなかったのです。
しかし芸術作品を見て感動するのはこの心の豊かな感性です。
喜び・感動・充実・感謝という「物理量の無い幸せの尺度」は心の感性なのです。
それを、幸せとはモノの豊かさと錯覚し、肉体五感のセンサーだけに頼って生きてきたのです。
2010年06月09日
イザナギとイザナミ
[千葉 麻賀多神社 ご神木 この幹の頂点からずっしりと霊光がはいりますよ。もうこの時期 何方も感ずることでしょう]
天の沼矛(あまのぬぼこ)から滴り落ちるしずくで大八州(おおやしま)つまり地球の陸地や日本列島が出来上がると古事記には記されています。
しかしそういう即物的な見方は、現代的なオペレッタ劇を見るような視覚的なセンスであって、その記載されている内容次元は形而上の意味合いなのです。
正確には
自其矛末垂落之鹽 累積成嶋 是淤能碁呂嶋
於其嶋天降而 見立天之御柱 見立八尋殿
その矛先より垂れる塩が積もりて嶋となる。これおのころ島ナリ
その嶋に 天もりまして 天のミハシラをみたて 八尋殿見立てたまう
陰陽という対極のエネルギーが一体となった創造神の依り代である天の「沼矛」それはイザナギ、イザナミの同一一体性のこと。
その神聖なる陰陽のエネルギーから地球の大陸が誕生したのでしょう。
おのころ島というのですから、自ずと転がる自転であって、それは物質地球でもあるし、コロコロと回転する「こころ」のようでもありますね。
そこに天のミハシラを建てるというのですから、それは神の拠点のあかしであります。
また、それが八尋殿ですから、八は数霊の「弥栄」、尋は広がり、殿はシンボライズされた形の意味。
そこは常に和を持って喜びの拡散の波動を持つ拠点ということになるようです。
於是問其妹 伊邪那美命日 汝身者如何成
答目吾身者 成成不成合處一處在
爾伊邪那岐命詔 我身者成成両成除處一處在
故以此吾身成剰處 刺塞汝身不成合處而
以爲成國土生奈何
伊邪那美命答日然善
爾伊邪那岐 詔然者 吾與汝
行廻逢是天之御柱而 爲美斗能麻具波比
ここに女性性である イザナミノミコトに 貴方は何者か?いかにしてココになれると 問いたまいました。
わが身は なりなりて 貴方と違うところひとつある。
イザナギノミコトはみことのりたまいて、私わが身は なりなるて なり余れるところ 一つあり
ゆえに このこのなり余れるところを あなたのなりあわざるところに挿し塞ぎて
国生みしようと思うがどうだろうか。
イザナミノミコト よかしむ と答えます。
ここに イザナギノミコト しからば 私と貴方が
この天御柱をゆきめぐあひて みとのまぐわいせんな とのりたまふ
これを単純に男女の出現、アダムとイブの求愛宣言と断定するのは余りにも単純すぎる。
男性性とは能動であり、左脳的なの波動を持つ。
女性性とは受身であり、右脳的波動を持つ。
しかし「誘な気」と読ませるようにそれは気であり霊性であります。
イザナミノミコトは「誘な身」であって、肉体であり物質性を意味します。
ともに双方はエネルギーの形態、波動性と粒子性であって、それぞれの利点を生かしあえば更なる地球進化発展が望める。
もちろん国産みとは物質肉体的な男女の関係でもあり、その交合は新しい子神も誕生する。
それも地球の弥栄である。
如此云期 乃詔汝者自右廻逢 我者自左廻逢
約寛以廻時 伊邪那美命 先言 阿那邇夜志愛袁登古袁
後 伊邪那岐命 言 阿那邇夜志愛袁登賣袁
各言竟之後 告其妹曰 女人先言不良
かく言いちぎりてすなはち 貴方(イザナミ)は右よりぬぐりあへ
私、イザナキは左よりめぐりあはむとのりたまひ
こういう契りをへて 、めぐりますときに イザナミノミコト まづあなにやし「えをとこ」をとのりたまひた。
のちに イザナギノミコトが あなにやし「えをとめ」をとのりたまふ
おのおの宣りたまひてのちに そのイモ(イザナミ)に 女性がこと先立ちては、ふさわしくないとのりたまふ。
この天御柱という神聖軸を中心にイザナギノミコト(精神性、霊魂)が左に旋回し、イザナミノミコト(体、肉体)が右に旋回する。
正しく精神と物質のバランスであり、ここにメビウスの思想が出てくる。
中心の御柱に対して、霊が左旋し、体が右旋するのは原則であって、すべてが融合一体化する。
ところが女性、つまり物質性が先導して、 さきがけの言霊は宇宙法則上、「禁」であり精神が先行しなければならない。
この結果、できた国産みは「ひるこ」であり、一種の流産でした。
原文では、そののち男性(精神)から「アナニ ヤシ エ ヲトメ」を発し、ついで物質が連れ合って「アナニ ヤシ エ ヲトコ」と発し正しい国産みができる。
つまりそれがするのが宇宙則である。
物質先行の社会では、心が廃れてくるのはご存知の通りですね。
ここに「霊主体従」が、いにしえよりのフトマニつまり宇宙玄律なのです。
またセックスも近代の一般概念や法律ではタブー視されて、「禁」であるから逆に、それを金儲けの手段にしたり、裏で淫靡な歪んだ人心をつくるようにも思う。
セックスとは本来は、互いを尊重しつくした「イモ(女)」「オセ(男)」神聖恋慕の極致であり、陰陽の正当な落ち着く様でもあって、正しく和合融合なのです。
それを法律も社会も排他的にあつかう「不義思想」が、実は神聖性を覆い隠しているようにも思います。
ちなみに「イモ・オセ」が伊勢神宮のイセの語源になったようです。
陰をめぐり、陽を廻りつ、スパイラル状に進化発展していくメビウスの原理。
それが生命哲学のようですね。
2010年05月30日
太陽の心
【甲府一の宮 私たちは何か地場の波動を感じると、そこに太陽との連動を何かしらキャッチするようです]
もう子供たちは、昇る朝日を拝むことも無くなったのではないでしょうか?
朝起きて、眠い目を擦りながら、洗面台に向かう。そして家族の皆に「おはようございます」と挨拶をして、朝食に付く。
農家の子供さんは如何でしょうねえ。
ひょっとして朝撮りのお手伝いをするために、早起きさんで、昇る朝日を毎朝、見ているかもしれませんね。
でも大都会の子供たちには、朝日はほとんど生活になじみがなくなってしまいました。
そんなところから、大自然に直面する心の奥からの感動が薄れて行ってしまうのではないでしょうか。
お月見する習慣もいまではほとんどみられません。
学校と宿題と塾に拘束された時間と、万時がモノ思考ですから、自然に対する感謝や畏敬、自然と人間との和がだんだん離れていってしまう。
明治時代の文人 小泉八雲、改名前の実名ラフカディオ・ハーン、ギリシャ生れのイギリス人が1890年に日本の松江に来た頃は、まだ太陽に向かって遥拝する習慣が広く残されていたようです。
というのは海外特派員として日本に赴任した彼が、日本生活の事始めに、家の外からのパンパンと弾く音で早朝目を覚ました。
彼が起居する日本家屋の引き戸から、音のする外をのぞくと多くの方が、太陽に向かって拍手を打つその姿、その音だったのです。
一般市民すらも朝早くから太陽を遥拝するその光景を目撃した彼は、日本人のその素朴な心、純粋な心に痛く感動したと記載されております。
新潟県と四国の一部では今でも太陽のことを「こんにちさん」といいます。
「今日もこんにちさんはエエですなあ!」とか、確か漱石の小節『坊ちゃん』にも、「そんなことをしたら、こんにちさんに申し訳がたたんぞな・・・」とかあります。
また江戸期には、通りすがりのお知り合いのご挨拶に、「こんにちさん、お元気ですか!」と声をかける。つまり、太陽のように明るく、すべてを照らす存在、その貴方様は元なる気でありましょうや?、という声かけだったのですね。
お知り合いの相手さんを太陽の心と見立てるのです。昔の方は、なんと素晴しい感性でしょう。
またお相手の返事が「ハイ!お陰さまで」とかえってくる。
貴方のお陰で元なる気で居られてます。
病気もなく元気なのは貴方様のお陰ですと、かえってくるのです。

[伊勢神宮はもちろん 天照皇大神さまをお祭りされる内宮もいいですが、外宮も素晴しいですよ]
お陰さまというのは、眼では見えない全ての対象、人の心や、大地の重力や、月の干満、そして土壌を豊にする土壌菌もそうである。
昔の人は眼では見えるものよりも、見えない波動を大事にしていたのですね。
「お陰さまで」とのお返事に、「左様ならば、ご機嫌よう!」とお辞儀をして通りすがる。
左様ならは、時代劇モノでお侍さんが「左様!」と肯定する言霊ですが、その通りであるなら安心しました、ますます機嫌つまち気持ちよく達者でお過ごしくださいと、さらに返したのです。
明治以降、主に男性が、「さようなら」女性が「ご機嫌よう」という言霊が、別れの挨拶に区分けされていったようです。その内に男女とも「さようなら」になっていったようです。
「太陽のこころ」それがご挨拶の言霊「こんにちは」の源流だったのですね。
2010年05月27日
妙見神社

[千葉市中央区の千葉神社さんは北斗信仰。 ここは節分など多いに賑わいますよ]
千葉県にはなぜか天御中主大神さまをお祭りする神社が多いですね。
宇宙創造神が天御中主大神さまであることはご存知の通りで、ついで高御皇産霊神、神皇産霊神の二神が加えた、三柱を造化三神と称します。
皇産霊神社は丹那トンネルの直上、函南の牧場、オラッチェ村の近くにありますが、ほかではあまりお見かけしません。
ですが妙見様、つまり天御中主大神さまはいたるところにお見かけします。
妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。
全国の小祠は数知れない。
北斗七星信仰の関係で妙見様になったり、仏教では11面観音さまがその化身ですので、仏教寺院の11面観音様を祭るところは天御中主大神さまの依り代と見て良いでしょう。
むしろ紀元600年以前は神社が先行していますから、その後に移入された仏教の建立は、神社の地場と考えて良いのです。
仏教寺院で古いところは、殆どが神社の跡地か、陰に仏名で合祀されております。
有名な千葉の日蓮さんが修行された「清澄山」にも11面観音のお堂がありますね。
そこも自ずと天御中主神の聖地とうかがい知れます。
いすみ鉄道の新田野駅付近にも天御中主神社がありすし、まえにも何度か行きましたが茂原付近の山中では妙見神社は実に多い。
八千代市の米本神社、臼井の星神社なども、妙見宮。
平安から鎌倉にかけて千葉氏が安房国の豪族で、千葉氏の建立による千葉神社も天御中主神、つまり妙見様をまつる。
そのせいで千葉には妙見社、北斗信仰、11面観音堂祠、天御中主神社と散在するのでしょうか。

[茂原の山中でしたか、気配のいい妙見様を発見。大祓え祝詞を奏上してきました]
千葉神社は千葉市内中央区のメイン街にありますが、個人的には山間の小さな妙見社に引かれますね。
みなさまも、天御中主神様を気にされてください。
鈴木の啓示ですと亜人が、神様に魂を吹き込まれ霊止(ヒト)になったのですが、爬虫類のような四足這いの状態からニ立歩行になったのは、神様に背骨を引き起こされて直立されたから。
つまり男女の区別なく脊柱は身体の中心軸になっている。
脊柱は神様の御柱(おんばしら)なのです。
これが天御中主神様の形質であるということ。
ちなみに右足の指導性原理は高御皇産霊神、左足の安定性原理は神皇産霊神。
この二神で神体柱(天御中主神)を支える、二本の天支(あし)となる。
霊止(ひと)の身体すなわち、神体なのですよ。
2010年05月24日
在り難し
[今は亡き盟友 片岡慎介さんに 奥様とお嬢様を通じて感謝状をお渡ししました。贈呈は神戸大学名誉教授 新家 龍 先生です]
限りなく小さな自己にたいして宇宙は途方も無く大きい。しかしその小さな自己であっても、ワレはこの宇宙に明らかに存在している。
自己とは本来「虚無」であっても差し支えないはずで、無限大分の1(1/∞ ⇒ 0)という自己の存在は超奇跡である。
正しく「在り難い」ことなのである。
本来無くてもいいはずの自己が宇宙に存在するということは、宇宙的意味があることであって、意味が無ければはじめから自己という存在は無い。
ここに気付いて、『一人ひとりが、特別な存在であると気づいたとき、世界が動き出す』 これが最も言いたいところです。
60億の地球人類みな意味があってこの地球に生まれついたのである。
どんな境遇のものも、その存在の価値があるということである。
平たく言えば一国の総理であっても、アフリカの困窮する一難民であっても、その宇宙存在という意味の価値は同等なのである。

[お化粧も新しい 須走浅間神社 その気配は優しい木花開耶さまに包まれてます]
その地球も程よい大きさと質量と回転速度をもっているから、海も大気も、もちろん人間も宇宙空間に放り出されることもない。
もし地球が今の大きさより小さかったら、太陽系の軌道を外れて宇宙の藻屑と消えてしまったかもしれない。
またビックバンの爆発速度が一億分の一速くても、また一億分の一遅くても今の宇宙はないという。
その大宇宙から生まれたかけがえの無い地球。
その地球は、人間に何も要求していない。
それでも生命に必要な光も空気も水もただで与えてくれる。
誰も地球から請求書をもらってはいない。
大地や海から生存に必要な食糧は自然に与えてくれるのである。
なんと言う恵みであろうか。
なんという宇宙全体からの計らいであろうか。
この地球にこの宇宙に、細胞を含めて自分のものなど本来何もない。
衣服も食材もあらゆる資源は地球から戴いている。
泥棒とはいわないが、平気で給料もマイホームも衣服も自分のものといっているが、頂きモノなのである。
だからあらゆる場面で、「戴きます」、「ありがとうございます」なのである。
マハトマ・ガンジーの「七つの社会的犯罪」の中に
・人格無き学識
・道徳無き商業
・人間性無き科学
・理念無き政治
というのがある。
ほかにも
・労働無き冨
・良心無き快楽
・献身無き信仰
の四つで計七つの社会的犯罪である。
日本には前四者の戒めを噛み締めるべきであろう。

[小田原 大雄山 早朝 5時の気配です]
それは文盲率が著しく低く平均して高度教育を受けかつ、高い生活水準を営んでいる日本国民にとって、仕事に政治に勉学にそして研究するといった世界を指導するための環境にとって、「精神不在が何よりも犯罪」と思われるからである。
原点に立ち返り、この地球に住まわせて戴いている「存在の本質論」に立ち戻れば、物質至上主義がいかに人類を亜人にさせ又、かけがえの無い地球を疲弊させてきたことの愚劣さがわかる。
世界の指導を担うわが大和の民は、ことに政治・商業・教育・研究分野で謙虚にかつ本物の魂自己を磨きかつ発揮していく必要がある。
一人ひとりが、特別な存在であると気づいたとき、世界が動き出す。
われ在り難し。




