2007年05月31日
マナの壷は魂の器

時にいろいろなオーブ(たまゆら)がカメラに収まるが、
概ねは丸いオーブで中に小さな核がギッチリはいっている。
「カラオケ大会」の写真を上段に示した。


写真は伊豆に泊りがけで打ち上げに行った時のものである。
よくよく見れば大中小様々なオーブが出現。
オーブ研究家の薄葉達朗さんに聞くとオーブは意識体と論ずる。
彼の膨大な写真と研究解析は昨年の日本初の
「オーブに関するシンポジウム」(日本サイ科学会主催)でも発表されている。
わたしがとる場合そのオーブの気配を感じている。
その気配に応じて天井やら壁やらもちろん人物などを写真に撮るのだが、
こちらの意識がハイな状態のほうが明瞭に出る。愉快にするとよってくる。

つまりお葬式やら沈んだ気配では全くといっていいほど出てくれない。
薄葉さんによると、大中小いろいろあるオーブは、
それぞれが意識体でこちらの意識と同調するように出現する。
だから「オーブさん、姿を見せて」と語りかけて撮影するそうだ。
まるでその意識体の存在を公表しろとばかりに出現するようだ。
むろん低速から高速でも移動する。
DVD画像でもゆっくりしたものから早いものまで確認している。

(写真提供 国際波動研究所 平澤氏)
サトルの理事で国際波動研究所の平澤幸治さんが真名井神社付近で撮影したオーブを見せてくれた。
まるで壷状のオーブで、場所柄、マナの壷か。
ユダヤの「三種の神器」のひとつに「マナの壷」というのがある。


(写真提供 平澤氏: 左が仁徳天皇稜 右がマナの壷)
マナの壷、アロンの杖、モーゼの十戒石、このユダヤの三種の神器
が、それぞれ八坂の勾玉、草薙の剣、八咫の鏡に相当する。
私にはマナの壷は「魂の器」のようにも思えて仕方がない。
勾玉自体が胎児のようで、この陰陽二つの胎児を合せると大極図のようになる。
実は此花開耶さまのメッセージで、『おまえは、勾玉をお持ちなさい』と1995年頃ににいわれていた。

(鈴木所有の 勾玉)
勾玉の姿は英語のカンマ(,)を大きくした格好だが、マルチョンのチョン。つまり魂。
マルという心に魂を入れるという意味ですが、さすれば「勾玉=マナの壷=魂」と、こんな構図にもなる。チョンという図形は古代ヘブライの「ヨッド」つまりYHWHをさす。
京都の真井姫さんから素敵な青紫のお写真を頂いた。
ひと目で「マナの壷」とわかった。
これも真名井ならぬ真井さんからのお届けものだが新次元の魂が降りてきたのでしょう。

(写真提供:真井氏)
世は殺伐とした、膿みだしの世相。
これまでにない惨劇が繰り返されていますが、同時に神世界も開けてきている。
「信・善・美」をそれぞれが心の中に強く思てい入れて、マナの壷の「魂の器」を大きくしたい。
魂の器からイキイキと輝く波動を日本全体の集合意識に大きく投げかけたいものだ。
2007年05月29日
善は負を創る?
善行がマイナスを創ることもある。
つまり相手のためにしてやった好意。
それが結果として、「なぜ感謝しない」、「これだけしたのに何にもなし!」、
「もう少しやっとけばよかったなー」など等。
相手方へのプラスの感情でやったのだが、負の感覚が残ってしまう。
当方へも時にお若い方がやって来る。
世のため国のため地球のために、世界の危険地帯へボランティアをと相談にやってくる方もいる。
だがお話をジックリ聞いてみると、世直しマニアックといおうか気合ばっかり入って、
冷静でかつ不動な心底が見えてこない。


早口でまくし立てる方はおおよそそういう傾向にあるようだ。物質的なバランスが欠けてもいる。
善行もいいのですが、その前に生かされていることへの深くてゆるぎない感謝がないと、
おだやかな「生命の分かち合い」がボンヤリしてくる。
単に目標志向だけが著しく強くて、わき目も振らず猪突猛進になっては危険。

善行で心の中に負を創るのはあいまいな決意か、自我の感覚つまり「俺がやってあげる」の意識。
だから「善行の毎日」だろうが、都度「反省でチェック」することが大事。反省による負の消去、それが『業』を創らない最良の方法。
心の中によどみを作れば業になる。
コップにドロを入れてかき混ぜれば先は見えない。
静かに落ち着いて濁った水が静まれば透明になって先は見える。
次からはこうしようというケガレ落とし、その反省で魂が磨かれる。
人間、何をしても必ず自己保存の種が隠れている。
毎日キレイさっぱりにして寝床につければしめたものだ。
つまり相手のためにしてやった好意。
それが結果として、「なぜ感謝しない」、「これだけしたのに何にもなし!」、
「もう少しやっとけばよかったなー」など等。
相手方へのプラスの感情でやったのだが、負の感覚が残ってしまう。
当方へも時にお若い方がやって来る。
世のため国のため地球のために、世界の危険地帯へボランティアをと相談にやってくる方もいる。
だがお話をジックリ聞いてみると、世直しマニアックといおうか気合ばっかり入って、
冷静でかつ不動な心底が見えてこない。



早口でまくし立てる方はおおよそそういう傾向にあるようだ。物質的なバランスが欠けてもいる。
善行もいいのですが、その前に生かされていることへの深くてゆるぎない感謝がないと、
おだやかな「生命の分かち合い」がボンヤリしてくる。
単に目標志向だけが著しく強くて、わき目も振らず猪突猛進になっては危険。

善行で心の中に負を創るのはあいまいな決意か、自我の感覚つまり「俺がやってあげる」の意識。

だから「善行の毎日」だろうが、都度「反省でチェック」することが大事。反省による負の消去、それが『業』を創らない最良の方法。
心の中によどみを作れば業になる。
コップにドロを入れてかき混ぜれば先は見えない。
静かに落ち着いて濁った水が静まれば透明になって先は見える。
次からはこうしようというケガレ落とし、その反省で魂が磨かれる。
人間、何をしても必ず自己保存の種が隠れている。
毎日キレイさっぱりにして寝床につければしめたものだ。
2007年05月27日
トガ学と合理性

科学は、物事を切り刻んで、とことんバラバラに分解する。だから科(トガ)学という。
その科学は要素還元論が根底で、バラバラにした物質の最小単位の働きを観察する。
それから全体像、もとの大きさそのものの働きを合理的に類推していく。
このようにルネ・デカルト以来、見える物質だけを対象としてきた科学。
それはバラバラにすることから成り立つのですが、元はキリスト教から発生していたのです。
この科学を生んだ基教のさらにその源流はバラバラに対立する一神教。
それぞれの異国の神は肉と香りを好んだ。
このため信徒は礼拝所に生贄を捧げ、生贄の血を大地に撒き散らす風習があった。
ギリシャ・ローマ時代にしても闘技場の入り口には血みどろの生贄が観客を出迎えていた。
いまでも基教の僧職は肉食をいとわない。
日本の神道では四つ足と血は重大禁忌です。肉食は己の血を汚すという。
ホツマツタエ(秀真伝)によると天照皇大神(男性神)は、
西の大陸で四つ足を焼いて食すと聞いただけ顔色ばんだという。
ちなみに天照皇大神は緑黄野菜ジュースのようなものを生涯食されたようですね。
物事を分け、バラバラしてから元に戻す科学は、近代の合理性を生んだ。
しかしその合理性だけが人間社会に先行すると大いに危うい。
人間本来の愛や融和の心が、物質由来の合理性の陰に隠れてしまえば霊的進化は進まない。
「幸せ」という心の中身は、愛・喜び・充実・感動であり物事の合理性ではない。

物事といった見える世界での、合理性の発達は、物質科学と共に歩み、
ものの豊かさ・快適さと消費することの美徳をもたらした。
アメリカでは一般経営者初め政府も「GDPは正義なり」という。
消費と生産力と合理性は、何よりも優先される。
しかし、科学性とその合理性は、先進的な響きを持つものの、実は人間をだめにする「麻薬」でもある。
科学は飛行機やロケット、コンピューターを生みだしたり、その周辺技術を含め、
私たちに大きな利便性、快適さを与えてくれた。
が、喜びや充足といった幸せを与えたわけではない。
幸せとは心の内容であって、心象の感覚世界であり、科学のもたらすものよりも遥かに本源的だ。
モノや利便性が今よりも発達していなかった奈良時代にも江戸時代にも、
私達より大いなる心の豊かさや喜び、感動を持って生き生きとしていた先人達がいる。


少子化で年金財政が破綻するなどから政府は多産計画に動いているようです。
が、昭和30年代は日本の人口は9000万人、江戸末期から明治時代は4000万人。
それでも心豊かなヤマト人の生活があった。人口減であらゆる資源はその消費が抑えられる。
エネルギーも食料もそして自然破壊も少なくなる。
マイナス思考ではなく日本人は常にこうした民族の神仕組みの深層を捉える、優秀なプラス思考の民族だったのです。
2007年05月25日
男性性・女性性

閑を見つけては、都営地下鉄線「船堀」にある東京健康ランドへ行く。
お台場の「大江戸温泉」もいいが、老舗の下町風情が好きである。
映画も楽しめるし、横になってもよし、マッサージも結構。だからかれこれ数年来、通っている。
ところが、部分改装とのことでいつもの「男風呂」と「女風呂」が入れ変わってしまった。
普段は「男ふろ」とかいた簾をくぐった右手にロッカールームがずらりと並ぶが、
こんどは暖簾をくぐった左手に赤いロッカーが並んでいる。
浴場に入ると薬湯、水風呂、ジェットバス、ミルキー風呂、ジャグジー、二股温泉風呂、
ひのき風呂、露天風呂、そしてサウナと私の好きな「塩サウナ」と多様である。
ところが今までの男風呂の配置と、女風呂の配置が左右対称、まるで逆にしつらえてある。


温泉風呂は 男性は右手奥の岩の囲い部分

温泉風呂は 女性は左手奥(岩状の部分)
見た目のそれぞれの風呂の構造・大きさ・いろ形は全く同じなのだが、配置が全く逆。
今までは塩サウナの長いすに腰をかけて、左手に首をむけてTVを見ていたのが、
こんどは同じ腰掛に座って右に首を曲げてからTVをのぞき込む。
着衣して洗面化粧台から右の出口へ出ようとすると、いや左手に出口がある。

風呂という同じ形色合いの物質形状を見ていたのは男性も女性も同じ。
だから一緒に行った女房殿と『今日の薬湯ふろはいいねえ!』というと、『そうねえ気持ちよかったわねえ!』と返ってくる。
つまり男も女も同じ机やイスを見ているのだが、視点視界が違う。
今までの固定観念で男風呂に数年もなじんできたのが、
女風呂に始めてはいるとまるで見方が違うということが分った。
男性陣は子供に真剣に叱り飛ばすという厳しさが専門なのだが、
女性陣はえてして、子供を諭すように愛で包みこむ。
どちらも間違いでもなくあるべき真実の姿だ。
男性性と女性性が一対になって、ほんものの『神化』がすすむのだろう。
前世レベルでは一つの魂でも男女の性が交替になるとも言う。
女性の視点を男性もときには必要だろう。
女性も男性性といった論理、集中、パッシブな想念も必要だろう。
最近ジーパンにスカートを撒く姿の女性を良く見かける。これは女性の男性性だろうか??
男性にはスカートを身につける時代にはまだ来ていない。
ファッションは別としても、家庭の中で母親の視点、父親の視点をそれぞれ振り返ってみてはどうか。

神さまは永遠に、男女、陰陽その中庸性を要求している。
2007年05月23日
与える存在
宇宙は今・此処にしかない。
今・此処の中でこそ銀河は回転し、輝き、あらゆる生命体がその生を全うしている。
大宇宙のベールはその刹那の瞬間に脱ぎ捨てられて、常に今・此処に新しい顔を覗かせ躍動している。
過去に宇宙はその手で掴めるだろうか、また未来の宇宙も掴めるだろうか。
今・此処にこそ宇宙はいてくれて、この今を私たちと一緒になって楽しんでいてくれる。
過去に拘泥することなかれ、また未来を恐れることはない。
「無」から「有」を生むことは物理学上不可能である。
しかしながら私たちは今・此処にいて現に生きていて、その「有」は無からもたらされたのである。
自己の存在とは大宇宙の中に無であることの方が当たり前で、今あること自体が超奇跡。
まさしく「在り難し」といえる。
宇宙に自分が「在る」ということは其処に選ばれたる認識を持つ必要がある。
無から『有』を作り出すのは神でしかない。
この大宇宙創造神とは宇宙の存在、秩序や法則と同じように論者は認識するが、
神は奪うものがないから与えっぱなし。
すべてをつくり全てを与える。

大宇宙創造神はヒトを創り万物を創り賜いたが、その目的は存在を楽しみ喜び、
まるで芸術家が作品を愛でるがごとくで、かつ創造物自身にも楽しんでもらうため。
その存在を謳歌してもらいたいため。
神心で創られたヒトもまた神と同目的の無私なる与えるのみの存在が、
本来の姿であるということになる。
超奇跡の「有」、そして今・此処に生きている私たちは、輝ける今を肯定し積極に生きねばウソである。生命という結晶体は、存分に楽しく、快活で、一切を受け入れ、
生命を謳歌するよう神から与えられたのである。
生きる意味は、といえば無論、快癒・喜び・充実であり
また、あらゆるものを受け入れ認めることから、
さらに『与える存在』へ、神に向かう進化(神化)の修行なのである。
今・此処の中でこそ銀河は回転し、輝き、あらゆる生命体がその生を全うしている。
大宇宙のベールはその刹那の瞬間に脱ぎ捨てられて、常に今・此処に新しい顔を覗かせ躍動している。
過去に宇宙はその手で掴めるだろうか、また未来の宇宙も掴めるだろうか。
今・此処にこそ宇宙はいてくれて、この今を私たちと一緒になって楽しんでいてくれる。
過去に拘泥することなかれ、また未来を恐れることはない。
「無」から「有」を生むことは物理学上不可能である。
しかしながら私たちは今・此処にいて現に生きていて、その「有」は無からもたらされたのである。
自己の存在とは大宇宙の中に無であることの方が当たり前で、今あること自体が超奇跡。
まさしく「在り難し」といえる。
宇宙に自分が「在る」ということは其処に選ばれたる認識を持つ必要がある。
無から『有』を作り出すのは神でしかない。
この大宇宙創造神とは宇宙の存在、秩序や法則と同じように論者は認識するが、
神は奪うものがないから与えっぱなし。

すべてをつくり全てを与える。

大宇宙創造神はヒトを創り万物を創り賜いたが、その目的は存在を楽しみ喜び、
まるで芸術家が作品を愛でるがごとくで、かつ創造物自身にも楽しんでもらうため。
その存在を謳歌してもらいたいため。
神心で創られたヒトもまた神と同目的の無私なる与えるのみの存在が、
本来の姿であるということになる。

超奇跡の「有」、そして今・此処に生きている私たちは、輝ける今を肯定し積極に生きねばウソである。生命という結晶体は、存分に楽しく、快活で、一切を受け入れ、
生命を謳歌するよう神から与えられたのである。
生きる意味は、といえば無論、快癒・喜び・充実であり
また、あらゆるものを受け入れ認めることから、
さらに『与える存在』へ、神に向かう進化(神化)の修行なのである。
2007年05月21日
五大不動尊
お不動様は人間が生きる正しい心の道を厳しく見守る。
故に悪鬼羅刹の類を憤怒の形相で炎と剣で駆逐する。
炎は進化渦巻く神化のタテの繋がりをも意象する。剣は現象界を進み抜く勇気と判断。
だから地獄の閻魔様と同じご存在。
人間の心にうごめく浅ましさや、嫉妬、そして卑怯な振る舞いを敢然と裁く。

<目青不動尊>
目青不動尊は渋谷の三軒茶屋駅から歩いていける。
実におだやかなお不動様で、心の中の感情や主として愛の心に火をともす。
言霊で言えば「ア」に相当するのは感性、芸術、愛のこころ。
論者はここで「日本人の魂の覚醒と進化」を意乗リあげた。

<目黒不動尊>
目黒不動尊は都内では一番有名だが境内下に龍神さまが祭られている。
時空間の認識と経験知を豊かにする言霊「オ」が色霊「黒」の内容。そして「オ」の現象化は「水」。故に水神様が祭られている。
ここで人間のかつてのあさましさと悲惨な歴史をお詫びした。
目黒不動のすぐそばに「五百羅漢」さんや「穴守弁天さま」がまつられて、ここも風情がいい。

<目白不動尊>
目白不動はJR目白駅から学習院下へ凡そ15分も歩いたところ。
色霊「白」は西の白虎、言霊では「ウ」。
すなわち物質現象界そのものの次元でもあるが、その精神はひるまない勇気と中正な判断。
目白不動尊には丸橋忠也のお墓もあった。
お不動様から頂いた論者への気配は「支えや協力」というイメージが取れた。
当方の意乗りは「東京直下型地震の大難を中難に、中難を小難に、小難を無難に」とした。
ここから歩いて10分もいくと、雑司が谷の「鬼子母神」さまがある。
大銀杏があって秋には欠かせない場所である。

<目赤不動尊>
JR駒込から地下鉄南北線に乗り換えて一つ目「本駒込」下車で数分のところに目赤不動尊がある。近くには徳川家にゆかりの「吉祥寺」もある。目赤不動尊 南谷寺はこじんまりとしたお寺だ。
「日本再生」の意乗り上げの瞬間に、雨交じりの曇天の空から強い陽光が差し込んだ。

赤は南の朱雀、そして言霊は「エ」。その意とするところはヒラメキと英知である。次元は菩薩界。ときによってアマテラス様からの強いヒラメキも入る次元

<目黄不動尊>
JR平井駅からタクシーを利用したが小松川運動公園そばの最勝寺、
ここに目黄不動尊がまつられている。気配の高い波動を感じた。
黄色は東西南北の中央部、中心座である。
心の中心であるから魂が直霊を受け取る場でもある。
四柱推命の天盤配置は中央が数字の五、五黄の土星の場所である。
この数字の五に言霊の「口」を重ねて、「吾(ワレ)」とかく。
故に天盤図はその中心である「精神のワレ」から東西南北、四方八方に広がる霊的八光であることが知れる。
もとより『われ神なり』なのである。
よって目黄不動尊での意乗りあげは「われ神として認識し神として行為する」
吾から純正、信念、希望、創造、愛、勇気、進化、調和の八光を
地球全景に投げかけるのが神人の本道。
黄色は言霊の「イ」、その意象は大生命意志、一切を生かしめている宇宙創造神である。
言霊ア・オ・ウ・エ・イ、その配置を大僧正天海は江戸の市中に押さえの「不動尊」として建立した。1643年に入滅した天海は三六九の年を経て再び2012年に復活するだろう。
故に悪鬼羅刹の類を憤怒の形相で炎と剣で駆逐する。
炎は進化渦巻く神化のタテの繋がりをも意象する。剣は現象界を進み抜く勇気と判断。
だから地獄の閻魔様と同じご存在。
人間の心にうごめく浅ましさや、嫉妬、そして卑怯な振る舞いを敢然と裁く。


<目青不動尊>
目青不動尊は渋谷の三軒茶屋駅から歩いていける。
実におだやかなお不動様で、心の中の感情や主として愛の心に火をともす。

言霊で言えば「ア」に相当するのは感性、芸術、愛のこころ。
論者はここで「日本人の魂の覚醒と進化」を意乗リあげた。
<目黒不動尊>
目黒不動尊は都内では一番有名だが境内下に龍神さまが祭られている。
時空間の認識と経験知を豊かにする言霊「オ」が色霊「黒」の内容。そして「オ」の現象化は「水」。故に水神様が祭られている。
ここで人間のかつてのあさましさと悲惨な歴史をお詫びした。

目黒不動のすぐそばに「五百羅漢」さんや「穴守弁天さま」がまつられて、ここも風情がいい。
<目白不動尊>
目白不動はJR目白駅から学習院下へ凡そ15分も歩いたところ。
色霊「白」は西の白虎、言霊では「ウ」。
すなわち物質現象界そのものの次元でもあるが、その精神はひるまない勇気と中正な判断。
目白不動尊には丸橋忠也のお墓もあった。
お不動様から頂いた論者への気配は「支えや協力」というイメージが取れた。
当方の意乗りは「東京直下型地震の大難を中難に、中難を小難に、小難を無難に」とした。

ここから歩いて10分もいくと、雑司が谷の「鬼子母神」さまがある。
大銀杏があって秋には欠かせない場所である。
<目赤不動尊>
JR駒込から地下鉄南北線に乗り換えて一つ目「本駒込」下車で数分のところに目赤不動尊がある。近くには徳川家にゆかりの「吉祥寺」もある。目赤不動尊 南谷寺はこじんまりとしたお寺だ。
「日本再生」の意乗り上げの瞬間に、雨交じりの曇天の空から強い陽光が差し込んだ。


赤は南の朱雀、そして言霊は「エ」。その意とするところはヒラメキと英知である。次元は菩薩界。ときによってアマテラス様からの強いヒラメキも入る次元
<目黄不動尊>
JR平井駅からタクシーを利用したが小松川運動公園そばの最勝寺、
ここに目黄不動尊がまつられている。気配の高い波動を感じた。
黄色は東西南北の中央部、中心座である。
心の中心であるから魂が直霊を受け取る場でもある。
四柱推命の天盤配置は中央が数字の五、五黄の土星の場所である。
この数字の五に言霊の「口」を重ねて、「吾(ワレ)」とかく。
故に天盤図はその中心である「精神のワレ」から東西南北、四方八方に広がる霊的八光であることが知れる。
もとより『われ神なり』なのである。
よって目黄不動尊での意乗りあげは「われ神として認識し神として行為する」
吾から純正、信念、希望、創造、愛、勇気、進化、調和の八光を
地球全景に投げかけるのが神人の本道。
黄色は言霊の「イ」、その意象は大生命意志、一切を生かしめている宇宙創造神である。

言霊ア・オ・ウ・エ・イ、その配置を大僧正天海は江戸の市中に押さえの「不動尊」として建立した。1643年に入滅した天海は三六九の年を経て再び2012年に復活するだろう。
2007年05月19日
おばか待望論

「アホな人やアホなことが世界を救う」と題して、名古屋在の江場康雄さんのシンポジウムがあった。
名古屋というのは、「比較をしない気質」であって、大阪にも東京にも肩入れしない。
「もったいない」精神も旺盛で、資源ゴミ回収率は日本一。
それも行政より民間の回収がその三倍もあるという。でも地方税の未納率は3.4%で日本一低い。
だからお任せという心は薄く自立心が旺盛なのでしょう。
携帯の普及率は日本一だが、発信回数は全国的にも低いという。

食事の食べ残し率も2.5%で全国最下位。
東京や大阪のレストランで、子供連れファミリー風景も見かけますが、
子供が半分以上食べ残しても親は、なにも言わない。
タッパーを皆がもって、食事に出かけ、余ったらそれに入れて持ち帰ることが大事じゃないでしょうか。それを「かっこ悪い」や「気恥ずかしい」という心を払拭して、『もったいない』心を優先したいですね。
親が捨てずに持ち帰る。それを見た子供たちは、ものを大切にするでしょう。
論者も家内との外食にはそうしている。
飢餓で死ぬ子が毎年 200万人以上の地球です。
飽食の日本でなくて『もったいない心』を日本人全員が共有したらいいと思う。

江場さんは、「おりこうさん」は頑張り抜いて目標に進む。
しかも敵か味方かの心で経済闘争に明け暮れる。
実はそうした分別、競争、優位のおりこうさんの社会が地球をダメにしていったのではないかと言う。
「バカにつける薬はない」と下世話に言うが、バカには初めから無駄なクスリは必要ないのである。
名古屋で医療関係、介護関係の会社を持つ江場さんは、
多方面に人脈が深い。綾戸智恵さんのコンサーを支援したり、介護ボランティアの支援活動もなさっている。
確かにアホな人物、アホなコトが少なくなって世知辛く、ぎすぎすした近代合理社会が創られてきたようだ。
世界最強のアホな国、年がら年中、笑い飛ばしているアホな日本人がいいのかもしれない。
2007年05月17日
密教大僧正

徳川家の最高顧問 大僧正 天海は江戸開城期の風水設計を担当。
特に日光東照宮の建設でよく知られている。もちろん江戸城鬼門の封印ほかも。
近江の阪本に西教寺がある。
この寺の総門は光秀が寄進したのですが、西教寺には光秀、妻の煕子(ひろこ)や一族の墓がある。
また、この西教寺と並んで日吉大社の左隣に天海が作ったと言われている日吉東照宮と滋賀院がある。
天海僧上が比叡山で修行したこと、信長の比叡山焼き討ち後の復興に尽力したことなどの記録が残っていますが、密教だけでなくなおかつ彼は古神道にも啓蒙が深い。
言霊アは五行五大で言うと東の青龍、もちろん色霊は「青」。
言霊オは北の玄武で色霊は「黒」もしくは「紫」。
言霊「ウ」は西の白虎、色霊は「白」、言霊「エ」は南の朱雀で色霊は「赤」。
そして、言霊「イ」は中央の位置を占めて色霊は「黄」。
つまり青、黒、白、赤、黄色は神道の五色旗にもみられ、その原点は言霊ア・オ・ウ・エ・イです。
大僧正天海は108歳の長寿とかで1643年に入滅した。
ミロク(369)の年を経て2012年 ふたたび復活されるのだろうか。
論者にはその復活とは「言霊の真意」の開眼のように思える。
彼が、江戸 五色不動を建立した。それは密教の根幹に言霊アオウエイの真諦を知っていたからでしょう。
ア(感情)、オ(経験知性)、ウ(本能)、エ(理性)、イ(神性:純正)が言霊の持つ重要な真意。
さてその肝心な地所を紹介しよう。

1) ア⇒心 (安定不安定) :目青不動教学院天台:世田谷区太子堂4-15-1
2) オ⇒開眼(時間の存在) :目黒不動滝泉寺:目黒区下目黒3-20-26
3) ウ⇒物質現象界(勇気) :目白不動金乗寺 豊島区高田2-12-39
4) エ⇒慈愛(ヒラメキ) :目赤不動南谷寺天台:文京区本駒込1-20-20
5) イ⇒神性 (いのち) :目黄不動最勝寺天台:江戸川区平井1-25-31
次回 辺りに訪問神業のお話でもと思います。
2007年05月15日
天使のサイクル
大宇宙が私たちを受け入れてくれて、この調和系の中に産み落とした理由は
「さらなる進化」のためでありましょう。
どんな高邁な理論や、学識経験があろうが万物を受けいれる目線が無ければ、
「本質的進化」の道は辿れません。
「受け入れ」や「素直さ」が何よりも勝る、神人の資質であるのです。
可も無く不可も無くささやかな日常の毎日と謙遜するなかれ、
神人が新世紀を開拓するその精神の原点は「受け入れ」や「素直さ」なのです。
悪魔のサイクル
① 我のみ (分離のこころ)
② 疑い (精神の拡大):人
③ 憎しみ (歪んだ動機):生物
④ 略奪と破壊 :生物・地球
天使のサイクル
① 受入れる (融合のこころ)
② 信頼 (精神の拡大) :万物
③ 感謝 (正しい動機) :宇宙
④ 奉仕 (創造の行為) :地球
それぞれ①から②へ、②から③へ、③から④へ、そして④から①へとサイクルを繰りかえす。
堂々巡りの悪魔のサイクルか。永遠のスパイラルアップ「天使のサイクル」を選ぶのは自由。
人間は神だから選択の自由を持つ。しかし誰しも奈落のそこへはのぞまないだろう。

社会悪の「魔のサイクル」は身の保身から、建前論が先行する。
上司を蹴落とし、蹴落とさねば左遷させられると疑いを抱き、
上司・同輩からの忠告や言動も追い落としの罠と映り、やがて憎悪に変わる。
身の保身と憎悪の動機が行為と変わり、略奪・攻撃へと打って出る。
歴史はいやというほどこの「悪魔のサイクル」を見せてきたのです。
「全てを受け入れること」こそどんな高邁な理論より先立つことなのです。
受け入れるからこそ、相手を信頼しささやかな齟齬・誤解でも広い心で受け止められる。
信頼しているからこそ、相手の言動を善意に解釈しその思いやりに感謝する。
同時にその感謝の心は宇宙の秩序とも共鳴する。
身に保身がないから行為は無報酬でも当り前とすることができる。
私たちは自分の細胞に生命料を払いませんし、光や空気を吸っても地球に支払いは発生しません。生きることは全てタダで行えるようになっているのです。
一つ行為といっても、「破壊の行為」と「創造の行為」とでは正反対の思想、正反対の動機。
破壊の大元「身の保身」はやがて相手を破壊するだけでなく、
魂という良心の副作用で自らも破壊(病や心の悩み)するのです。
「神様にお願いすれば願いはかなう」ことは無く、外に向かって叶えられる訳も無い。
この三次元界の神は己であり、大生命意志(創造神)に己の存在を感謝し、神の代行者としての自己がその三次元界の万物一切を受け入れ、一切を導いていく。そして魂に嘘、偽りを言うことなく一切を進化に向けて創造していくのです。
「さらなる進化」のためでありましょう。
どんな高邁な理論や、学識経験があろうが万物を受けいれる目線が無ければ、
「本質的進化」の道は辿れません。
「受け入れ」や「素直さ」が何よりも勝る、神人の資質であるのです。
可も無く不可も無くささやかな日常の毎日と謙遜するなかれ、
神人が新世紀を開拓するその精神の原点は「受け入れ」や「素直さ」なのです。
悪魔のサイクル
① 我のみ (分離のこころ)
② 疑い (精神の拡大):人
③ 憎しみ (歪んだ動機):生物
④ 略奪と破壊 :生物・地球
天使のサイクル
① 受入れる (融合のこころ)
② 信頼 (精神の拡大) :万物
③ 感謝 (正しい動機) :宇宙
④ 奉仕 (創造の行為) :地球
それぞれ①から②へ、②から③へ、③から④へ、そして④から①へとサイクルを繰りかえす。
堂々巡りの悪魔のサイクルか。永遠のスパイラルアップ「天使のサイクル」を選ぶのは自由。
人間は神だから選択の自由を持つ。しかし誰しも奈落のそこへはのぞまないだろう。
社会悪の「魔のサイクル」は身の保身から、建前論が先行する。
上司を蹴落とし、蹴落とさねば左遷させられると疑いを抱き、
上司・同輩からの忠告や言動も追い落としの罠と映り、やがて憎悪に変わる。
身の保身と憎悪の動機が行為と変わり、略奪・攻撃へと打って出る。
歴史はいやというほどこの「悪魔のサイクル」を見せてきたのです。
「全てを受け入れること」こそどんな高邁な理論より先立つことなのです。
受け入れるからこそ、相手を信頼しささやかな齟齬・誤解でも広い心で受け止められる。
信頼しているからこそ、相手の言動を善意に解釈しその思いやりに感謝する。
同時にその感謝の心は宇宙の秩序とも共鳴する。
身に保身がないから行為は無報酬でも当り前とすることができる。
私たちは自分の細胞に生命料を払いませんし、光や空気を吸っても地球に支払いは発生しません。生きることは全てタダで行えるようになっているのです。

一つ行為といっても、「破壊の行為」と「創造の行為」とでは正反対の思想、正反対の動機。
破壊の大元「身の保身」はやがて相手を破壊するだけでなく、
魂という良心の副作用で自らも破壊(病や心の悩み)するのです。
「神様にお願いすれば願いはかなう」ことは無く、外に向かって叶えられる訳も無い。
この三次元界の神は己であり、大生命意志(創造神)に己の存在を感謝し、神の代行者としての自己がその三次元界の万物一切を受け入れ、一切を導いていく。そして魂に嘘、偽りを言うことなく一切を進化に向けて創造していくのです。
2007年05月13日
塩船観音寺

つつじの花便りに誘われて、青梅の「塩船観音寺」に行ってみた。
「河辺」とかいて「カベ」と読ませる青梅線の駅から、バスで10分。
さらに徒歩で10分ほども行くと「塩船観音寺」。
初めてもうでたが、重文クラスの古刹の本堂があった。
だが気配は神道の地場エネルギーを感じる。
塩船というから「塩土の翁」を連想する。
翁は塩竈神社のご祭神にして丹後の真名井神社には、またの名を「豊受大神」とあった。
兄のつり針をなくして東海の海へ山幸彦を案内する神様。
ところが塩船神社の縁起式にはそれらしいことは何もかかれていない。
小さな祠が寺内にあった。其処には山王さまが祭られていた。
山王さまといえば大山咋さま、またの名お大物主さま。
塩とは余り関係なさそうだが、国津神系の神様たち。
夢想と感覚だけに任せるしかないが、天の鳥船で青梅に来られたのだろうか。
全山 つつじの見事な景観だ。お寺の背後の山が、手入れの入ったこんもりとしたつつじで、まるで風船ダマのように色とりどりの丸いつつじの塊が、一面に散らばる。
館林のつつじも見事だが、塩船観音寺もシーズンにはいいですね。




