2008年03月31日
マントラによる鬱の解放

[言霊講演中の論者 鈴木俊輔]
肉体の痛みが単にあるだけで、生への希求があるかぎり『鬱』にはなりません。
どうにもその苦痛や、環境が何とかならないのかと心で思い始め「生への不信」が募ったときに『鬱』へと進行していくのです。
生命体とあるように私達は「生体(肉体)」と「命体(霊体)」で出来ている。これがアンバランスで、生体がうっとうしく感じるのが『鬱』のはじまり。
目標意欲、労働意欲、生殖欲もなく、深い心のよどみに沈降している鬱のレベルから、まれに鬱が顔をのぞかせる軽症レベルまで鬱の症状は様々。
チャクラで言うと、ムラダーラチャクラといった下腹部の性腺チャクラが弱いと、往々にして生活意欲が欠如してきます。

氣で言うと、足下に抜ける氣の通りが悪くなるとこうした現象を伴うようです。
男性よりも女性のほうが足下の氣の通りが悪いよう。
おそらく足の指を男性のようにグンッと開かない、淑やかな女性の生活習慣がそうしているのでしょう。
前回 3/23日のブログで「天・地・人 つなぎの呼吸法」を紹介しました。これも気の足下の通りと、大宇宙への「繋がり」を意図したものです。
個別にかなりの方にも指導しておりますが、非常に効果があります。
大生命意思つまり宇宙創造神は、常に全ての生命体に「生きよ!」との生命エネルギーを投じてくれている。
自然界の全ての生命体は「元ひとつ」ですから、その「元ひとつ」の命、大生命意思と己とが繋がったとき、生命エネルギーが注入される。
同時に、胸腺チャクラに「愛」・「調和」・「感謝」の光が、下丹田には勇気、やる気が投げ込まれるのです。

大宇宙・大神霊によって魂が生まれ、今こうして肉体を持って進化の修行に励んでいる。
ですから今までの全てを進化のための環境素材と喝破して、大宇宙・大神霊様に感謝の心を振り向けるのです。
すると、そこには必ず上述の反応が返ってくる。

基教でも回教でも、仏教でもマントラ(祝詞)は神聖なる言霊です。
『神我一体のマントラ』を放出してみてはいかがでしょう。

『鬱』にどう作用するかを実感してみましょう。但しマントラを発するとき心の所作が大事です。
100万遍の心無い呟きよりも、真に希求する一言が有力なことは言うまでもありません。
眼は開眼状態であること、出来れば天を向き、青い空を見つめ、有音発声で次のマントラを堂々と発してみましょう。

[弥彦神社境内 十柱神社]
― 神我一体のマントラ(祝詞)―
『大宇宙・大神霊さま わが命、わが魂を頂きありがとうございます。心から感謝申し上げます。
大宇宙・大神霊さまの 御心に沿って生かさせていただきます』
一人ひとりの魂が生命エネルギーの本源、大宇宙・大神霊に向けられたとき、現状逃避、目標喪失、霊肉の不一致、『鬱』の諸元は溶解することを実感してみましょう。
2008年03月29日
よく噛んで笑って100歳まで

[サトルの春の大会での寺川先生:歯の噛みあわせで美人にもなるようですよ]
「歯」という漢字を良く見ると、八と八が上下に配置されています。
それが示すように、上下8本づつの歯であごがキチット固定されるのだそうです。
4の倍数が歯の法則のようで、赤ちゃんは4本歯が生えると離乳の時期を迎えるようです。4の2倍数の8歳位から乳歯が抜け始め、2×8の16歳くらいで永久歯がそろって上も下も16本づつ。

年齢の「齢」とは歯がついているから、歯が寿命にも関係するというのは寺川國秀先生のお話。
寺川先生は池袋にあるアルプス歯科の歯医者さんで日本歯科東洋医学会、日本歯科審美学会、日本歯科人間ドック学会の副会長を歴任、アメリカ審美学会フェロー、アジア歯科審美学会理事、オカンポ大学歯学部客員教授の重席を務めていらっしゃる。
4×6の24歳くらいで親知らずも揃ってきて、あごの関節がしっかりしたときに本当の完成体の成人となるようです。
寺川先生から見せていただいた2つの頭蓋骨ですが、歯のしっかりそろった頭蓋骨の重さは650グラム。
これに対して歯がないほぼ同じ大きさの頭蓋骨はナント250グラム。
つまり噛む力がなくなると頭蓋骨がスカスカの骨粗しょう症のようです。

死亡原因の順番は現在、癌、心臓疾患、そして脳溢血などです。
痴呆症などの脳の病も含めてこれらの病気の予防にはまずしっかり噛むことと、良く笑うことだと説く。
特に近年では若者でもグルメ嗜好とかで、柔らかいものが好まれていますが、このままでは脳もふにゃふにゃになってしまう。
噛む力がないと脳下垂体が弱く、だんだんと脳が衰えてくる。
痴呆症の方は、概ね総入れ歯でほとんど顎を動かしていないようです。
生きる目標を失って顎を動かしていないと弱年でも痴呆症に近くなる。
顎を動かさないと自然と顎が前に突き出て脊柱が曲がって背中が丸まってくる全体姿勢になるようです。
歯の前歯4本はネズミのように野菜を食べるように出来ている。
犬歯の上下左右の8本は肉を噛み切るように出来ている。
そして最も多いのが臼歯で16本。
これは穀類をすりつぶして飲み下すように人間が出来ているということ。
だから人間の食に最も適するものといえば穀類が一番ということになる。
これに魚肉と野菜サラダが少々ということになりましょうか。

ヒトは24×5の120歳くらいまでは生きられるように設計されているようです。
良く噛んで笑って豊かな心で、せめて100歳まで生きなさいと寺川先生は言う。
そして、ヒトの元気の秘訣は医者にかからないことと、綺麗な方と握手することだそうです。
2008年03月27日
チベットに愛を

[五体倒地のカイラス山にはいまでも多くの方がお参りするようです]
チベット医学に三毒説というのがある。
もちろん心のあり方が病を引き起こすのですが、その心の中でもこの三毒が最もまずいのです。
① 貪り ② 怒り ③ 愚痴
この三毒が無ければ病は起こらないということになる。
となれば三毒を頂かなければいいのですが、より積極的には鈴木流には次の三膳をオススメしたい。
① 与える喜び ② 受け入れ笑う ③感謝の言霊(ありがとう)
最強の人生薬膳だと思ってます。
知人が一昨年でしたか、チベット医学の視察に行かれたそうです。
チベットには問診、耳診、見診があるそうです。
耳診とは特に小さいお子さんの耳を調べて病の態様をキャッチする。
見診にしてもハンパじゃなくて「おしっこ」の色、味覚、あわ立ち、時間変化様々に見立てるのだそうです。もう一度書きます「味見」もはいります。

これに加えて、投薬の時間は太陽や月の運行とも関連して行うようです。
こうした医の原典のチベット医学の視察には様々な障害があったようです。
一つにはお医者さんとアポとっても中国官憲の立会いがあり、自由に意見交流が出来ないのだそうです。
食事中でも官憲の目が柱の陰にあるようです。
つまりチベット人が外国人と直接触れることを極度に恐れているようです。
中国がチベットを侵攻したのが1950年。
戦後のどさくさ紛れに辺境安全と称して中国人民解放軍による侵略を受け、チベットは軍事制圧された歴史を持つのです。
その5年後位からチベット人が武装蜂起、一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功したのですが、またすぐに奪還されました。
これがチベット動乱ですが、現在でもなお続いている。当時は凡そ100万人くらいのチベット民族が死亡もしくは亡命したとか。
チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、旧政府メンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドのダラムサラなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会をつくっています。
こうした亡命先の自由な縁戚を辿るチベット人も多く、いまでもネパール国境地帯でヒマラヤ山脈を歩いて脱出する子供たちもいる。
年間数百名の子供が6000メートル級のヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命しているようです。
父母を慕ってのがれるもの、新天地を求めるもの様々だが数歳の子供たちがナント徒歩でヒマラヤを越えるのです。

それを極秘でとったDVDもあり、山越えの過酷な様子を克明に記録している。同時になぜそうせざるを得ないかという問題も大きく投げかけています。
そのDVDの販売金(定価¥1500)の一部はチベット難民支援に寄付されているとききます。
子供たちのヒマラヤ越えをとらえた貴重な実写で、お問い合わせは www.tsg-kiku.com/eoth/
中国本土ではもちろんラマ教は認められてません。
チベット問題は論者の小さい頃からのかれこれ50年以上も続く民族弾圧の典型で、国連の高等弁務官もたびたび中国政府に僧侶への弾圧を警告してました。
ここにきて北京オリンピックのせいで世界が中国を見ていることなどから極度の弾圧はないものとして、チベット人の蜂起があったのでしょう。
人種問題が急に出てきた感がありますがもう50年もたちました。
日本国内でもチベット文化研究会などがささやかな世論喚起をしておりました。
ですがこうした人道問題に対して日本政府からの働きかけは聞いたこともありません。
国際世論に比べて日本は事なかれ主義の感じがしますね。

チベット系の方に聞きますと、日本人の「北朝鮮と拉致被害者の関係」という絶対不信の感覚が、かの地ではそれを大きくした「中国政府とチベット人全体」といった感覚のようです。
世界の不幸はわれの責任でもあるのですが・・・。
2008年03月25日
杏の花
[窓から見える杏の木。手前のお墓と立ち木の向こうのお墓は別のお寺さんでさらに右となりもお寺があります]
事務所の窓から外を覗くといまや杏の花が真っ盛り。
この杏の木は表通りからは全く見えないお寺の中にありますから、当方が一番ジックリと拝むことができるのです。
毎年 春分の日の数日前からほころびはじめ、この杏の花が落ちてくると、今度は歩いて10分ほどにある芝公園のソメイヨシノが見頃となってくる。

杏林大学という医師系の大学がありますね。
その昔、中国に奇特なお医者様が居て、多くの方を施術されていた。
ところが貧乏人も多くて中には治療費のお金が支払えません。
そこでお医者様は貧しい方には杏を一植所望されていた。
お金持ちもいたでしょうが、ソコソコに物持ちの方には杏を数本庵の周りに植えさせた。
時もたてば医師のその周りは杏の花だらけで、シーズンにはいいお花見をされたのでしょう。この中国の故事から医師を「杏林」とも称したそうです。

ですから杏林大学の由来もおそらくそこにあるのでしょう。
杏林大学の構内には杏の並木道もあるようで学生さんがアンズジャムもこしらえているとか。
杏林といえば杏林製薬というのもありましたね。おそらく同源のネーミングなのでしょう。
杏の種の粉から作ったと後から知れたのですが、杏仁豆腐がります。
若いとき中華料理でお腹が一杯の最後のデザートが杏仁豆腐でしたが、これが不思議なことにズズッとすするとお腹がすっきりする。
ほのかに甘い汁にはっかの香り、いまでも好きなデザートです。
桃の花の鮮やかなピンクと、ソメイヨシノの可憐な白の中間を行く杏の花。
丁度この時期には、自宅のボケも開花が始まって朝に自宅のベランダにご挨拶。そして事務局に入って窓を開けては外の杏さんにご挨拶。
こちらが杏の花に「ありがとう」と気を送ると、杏も負けずに周りむかって精気を放つ。
花はいつもヒトに向かって美しく生きなさいとささやいているのです。
2008年03月23日
呼吸法による鬱の解放
2004年の統計によると、家族に病死者のあった方が鬱患者になった例が30%と聞く。
肉親の病死に、生老病死のはかなさを感ずるのか。
なぜ生まれ、なぜ老い、なぜ病となって死ぬるのか?
大釈迦の出家の動機でもあるが、やがて自らの修行と、魂の進化のためと大悟するのが生老病死、その裏に隠された真理である。
自殺者を持つ家族にいたっては60%が『鬱』を感じているという。
肉親の死に至る悩みに、何も出来なかった己の自責がそうさせるのか。
いずれも深い心の中で、どうにもならない喘ぎが、この現実を遠ざける。

高い霊性をもつ人がこの頃『鬱』傾向にあるのはおよそ半分位もいる。
霊次元上昇による、霊の進化に対して肉体が伴わないからである。
つまり単細胞人間でかつ目標思考の体育会系には現在、『鬱』とは疎遠である。
霊・肉のうち、霊が突出した現象が『鬱』で、肉を忌避するのである。
霊肉の一致は、プラーナ(氣)と呼吸(肉)の一体連動による、氣の回路のお掃除が有効である。
エーテル層とアストラル層の調和が呼吸法によって改善される。

舌先を上歯の付け根に接すると、氣の回路は通りやすくなる。
そして神道では「長世息吹の法」とも言うが、鼻呼吸でゆっくりと、実に長い深呼吸をするのが長寿の基本である。
そして吐き切る、吸い切る、また「呼」・「吸」のそれぞれの終点で留めるということが大事である。
留めるとは、メビウスのゼロ点(停止点)を意識することでもある。

メビウスとは吐く、吸うその呼吸の繰り返しの8の字型のループをさす。
呼と吸の交点、ゼロ点は眼に見えないプラーナと眼に見える肉体との次元接点でもある。
論者は「天地人 繋ぎの呼吸法」と称するが、あらかたの『鬱』はたった、6サイクルの呼吸法で解消する。
《 天地人 つなぎの呼吸法 ・・・立禅、座禅、椅子いずれでも可能 》
① 両手は肩幅で下げ手掌を地表に向ける。(以後、手掌は全てこの状態のまま)、吐気を腹から両足を通じ足裏から地球の中心まで送るイメージで吐く。
② 吐き切ったら、軽く肛門を締め、4~5秒停止し、マグマの灼熱で吐気が消滅しているイメージをする。吐き切るときは胃袋をやや持ち上げる心持ちである。
③ 肛門を緩めて、マグマの中心から(赤い)地の氣をゆっくりと吸い上げ、足裏から入り、丹田にとどめる。吸い上げ時間は人によって差はあるが3~5秒の時間を掛ける。
④ 氣を丹田に入れたら肛門を強く締める。約5秒程度の間、取り入れた地の氣が全細胞に充満していくイメージをとる。肛門はより強く締めたほうが有効で、強いほど軽い風邪、不快感、非現実感などはその瞬間で快癒する。
⑤ 氣が身体に充満したら、肛門を緩め、吐気は背骨から首筋、頭頂を越え、頭上からアンドロメダ星雲、銀河の果てまで飛ぶイメージでゆっくり(3~5秒)吐き切る。吐き切る時に胃袋が上方に移動するよう横隔膜を吊り上げる。このとき地の氣を天に繋げる気持ちがなおよい。
⑥ 頭上から吐き切ったら、肛門をやや締め3~5秒 留める。次いで天空の白光をイメージし肛門を緩め、頭上から白い(時には青白い)天の氣を取り入れ、光は頚椎をとおり、丹田に入る。この間3~5秒とゆっくりと取り入れる。
⑦ 丹田に、天の氣を注入したら、約5秒間肛門をしっかり締め、その白光を体内全細胞に充足させる。すなわち白光がくまなく染み通るイメージである。
⑧ 体内の汚れが吐気とともに排出する感覚で、それは両足から足下に抜け、地球中心まで吐き通す。3~5秒で赤いマグマの中心まで吐くが、吐くときは横隔膜を吊り上げ吐き切る。穢れは灼熱の マグマで焼き切る。吐き切って軽く肛門を締め約5秒停止。
⑨ 以降 この手順で「吐く~吸う」を6サイクル行う
ポイントは頭上の天空からいただく氣と、 足下の地からいただく氣とがわが腹中で産霊(ムスブ)ぶという心。

そして吐ききる(肛門を軽く締める)、留める、吸い切る(肛門を強く締める)。
鼻呼吸にして舌先は歯裏につねに接し、足の五指を開き、閉眼で行うこと。
そして、毎日毎日の反復がなお大事! 病床の方にも、ゆっくりの長世息吹は無理かもしれないが、その基本的所作は可能であろう。
呼気と吸気のメビウスの交点、原点回帰の丹田に天の氣と、地の氣を繋ぐ、天地人の呼吸法。天と地を繋ぐ責任者は私たちひとりひとりの「人」であるということなのです。
2008年03月21日
自宅で死をむかえよう
ここ数年で知人が、3名もご自宅で亡くなられた。
1人は50代前半の女性で「くも膜下出血」、お1人は自宅の風呂場での「心臓麻痺」、
最後のお1人は足腰が弱って通院もままならない方だが自宅の階段から転落死した。
そしてどの例も、官憲が立ち入ったのである。
家族は犯罪者とばかりに詰問され、ある場合には遺体解剖にも付された。
要するに犯罪性のチェックである。

むしろ金権体質に染まった医師の過失や、時には故意の院内死、臓器の違法斡旋もある。
そこには官憲は一切立ち寄らない。
病院で死を迎えれば、それは医師という国家免許を持つ救済者のもとでの死であるから、犯罪とはまったく無縁という判断であろう。
しかし自宅死では、犯罪が前提の見方がされてしまう。

現代社会では、「死とは何か」が特に若者の中では見えていない。
刺したらどうなるか、面白半分に傷害や殺人を犯す狂気の若者もいる。
一般家庭でも、少々具合が悪ければ、それ入院とばかり病人を家から送り出す。
病院のほうが家庭より安心で、何かが急にあっても即座に処置をしてくれると思っての処置であろう。
だが本当にそうだろうか。病院は本当に安心だろうか?
病院内、入院患者の苦悩と不安と恐怖そして「何故、私だけがこんな目に!」という怨嗟のヒビキが壁・天井に染み付いている。
だから病院内の波動は非常に悪い。

入院患者も医師と医学を信じて入院されたのだが、本当の心のよりどころは家庭である。
病はそもそもその心から来ている。
だから、安住の家庭こそ心が安らぎ、静かに反省も出来る。
検査入院を繰り返す患者は、その都度、『もう自宅に戻れないかもしれな』と洩らす人も多い。
苦痛な検査でもう身が持たない。
検査入院でもこれっきりかもしれないと、半ばあきらめている人すらいる。
事故や、重篤な病は入院が必要かもしれない。
しかし老衰や軽い疾病では昔のように自宅療養のほうが安心で人にはいえない家族への甘えもあって、患者の精神負担は比較にならない。
看る側も家族愛のこもった自然体で看護することが出来る。

そして何よりも「自宅で死を迎える」ことのほうが、家族に看取られる魂の安住と、看取る側には「死を直視し、死から学ぶ」ことが出来るのである。

ゆえに自宅で自然死を迎えるべきなのである。
そして死をまじかにして、小さな子供も死の尊厳を学ぶことが出来る。
2008年03月19日
酸化と還元の世界

<大自然は酸化と還元がたくみに寄り添って大循環をしています>
わたしの仕事の一部に生ゴミ処理機などの環境機器の技術指導があります。
好気性菌といって酸素の存在下で繁殖する菌の投入と空気を送って暖かいベッドをこしらえてやると生ゴミは旨く発酵分解してくれる。
ですが、機械メーカーは何処もかしこも好気性菌の善し悪しが生ゴミ処理機の能力を左右する大前提だと思っているようです。
やや専門的になりますが、空気を送った酸化性雰囲気の中でも部分嫌気といって空気のまじわらない部分は処理槽内のいたるところにあるのです。
だからそこでは嫌気性菌が活躍しているのです。

つまりマクロには好気の世界が、ミクロには嫌気の世界が共存しあっているのです。
雑廃水の汚物の主体は有機炭素で、この有機炭素も空気との反応や好気性菌の作用で酸化してCO2に気化する。
つまり浄化される。その一方で土中に住む嫌気性菌などの作用でメタン(CH4)に還元する浄化作用もあるのです。
酸化して分解しきれない窒素酸化物は土中の嫌気性菌が還元して窒素に固定化したり、
同じく処理しにくいリン酸も草花に栄養源として処理されます。
だから河川や湖沼などの自然浄化は酸化だけでなく、土や植生物によって還元されてもいるのです。
酸化と還元が混在しているのがこの自然界なので、酸化を男性的な世界、還元を女性的な世界とたとえると男女がバランスしあって一切がうまくいっているようですね。

その昔、長良川河川敷の総コンクリート化でそこは腐敗の川と化しました。おそらく酸化浄化だけの技術的視点で行われたと思います。有明海でも水門設置で湾内の海産物に大ダメージがありましたね。潮流の流入による酸素の湾内供給ができず、海底残滓物の浄化、適度なプランクトンとの共生など酸化と還元が共存する自然のメカニズムについてついていけなかったようですね。

豪水災害を無視した極論かもしれませんが、護岸もせずむき出しの岩や小石がごろごろしている方が大自然とのバランスが取れている。それは酸化分解の菌や逆に還元に働く菌も居て、なおかつ水と小石がぶつかって小さな乱流が出来る。この乱流が汚泥物を元の姿にするようです。
人の体は食べた炭水化物と呼吸の酸化反応で熱エネルギーを生じています。
ところが、体内水は全て還元状態にコントロールされています。
生命体は還元に維持され、肉体活動は酸素を消費するようになってます。
ここでもまた酸化と還元が混在しているのですね。
この物質世界は酸化と還元で一切を表現できるようです。

もちろん酸化や還元は物質化学用語ですがその真理の側面は大自然や人間の生命現象そして男女のお付き合いと同じようです。
その両性の存在が補い合あってより高い秩序系をつくるように仕向けられているのでしょう。
少しむづかしいですが酸化とは物質に酸素がくっつくことまたは電子が失われること。
還元とは酸素がなくなるか水素がくっつくか又は電子が取り込まれることをいいます。
還元の親分である水素(H)と、酸化の親分である酸素(O)の両極がくっついて生命の大元である中性の水(H2O)が創られている。
水の分子記号からも調和と補い合いという神様の配慮があります。

ヒトの脳の中では取り入れた酸素の75%が消費されるようです。
酸化とは燃焼であり結果として老化であるのですが、脳がすぐ老化してはたまりません。
生命体は常に還元状態ですから、活動によって脳の酸化を阻止するように電子のチャージ(部分還元)があるものと予測します。
人が立って活動することは脳から電流が放出される(脳波、神経伝達電位など)ことであって、
このためには逆向きに何か脳に向かって電子がチャージされねばならないはずです。
論者は良性なプラスの意識がフォトン(光子)を生み出すのではないかと推定しています。
フォトンを氣と解釈しても構いません。

やがて光・意識・物質の関係をひも解く時期がそう遠くない将来くるように思います。
その時には「見えない意識」と「見える物質」の関係が一本に繋がれるのでしょう。
2008年03月17日
サトルな舞台
<3月9日 サトル春の大会 舞台装飾:装飾は塚田夢笙さん>
感動を科学する庶民派学会、それが「サトルエネルギー学会」の位置づけといえましょうか。
「目に見える現象」と「眼に見えない意識」との間を橋渡ししようとするのが学会の目的です。
意識や気や、アロマなどの薬効、カラーセラピー、もちろん「いのちの水」などまだ科学的には十分メスが入れられていない現象を7つの研究分科会で論議しております。
こうした現象の根底には微細なエネルギー(Subtle Energy)が変容して生命体に関与するという科学的な立場をとっております。
ですが物質科学を超えたヒトの感性領域まではいっていかないと「真実」は総合的に見えません。
物理学もそうですが、あらゆる学問も永田町の力の論理も最終目的は「人類の幸福」です。
ですがなかなか「政治」イコール「幸福」とはピンと来ないのが実態です。
学問と幸せの関係も月とスッポンのような関係にみえるかもしれません。
でも本来、科学の大元の「神学」も「ニュートン力学」も「政治」も人々の幸せを求めるための重大な道でした。

物質科学は心や感性を排除しておりますから、
幸せという心の作用と物質の関係はまるで見えなくなってまいりました。
ようやく「量子力学」の世界に入って、主観と現象が論議され始めましたが、まだまだ入り口。

幸福の四っつの要素「喜び」・「感動」・「感謝」・「充実」それらをストレートに探求していのが幸せへの早道です。

そのためには、お釈迦様も指摘してますが肉体五感のセンサーは外界を認知する手立てですから、ここを拠り所にした論理では限界があるのです。
論理でなくて内なる情報源の感性の方が幸福をつかむ早道です。

そのためには魂が打ち震えるほどの感動を感じる心、感性があることがまづ「幸福をつかむ前提条件」といえましょう。

素晴しい芸術作品を見て私達は深く感動し、充実感を得ます。
しかしその作品から来る感動と物体との関係を科学で証明することは出来ません。
つまり目では見えない愛や喜びを科学的に判定することは困難です。
「お隣の芝生のあるご家庭には、美しい奥様と素敵な旦那様。毎朝 坊ちゃんをベンツで幼稚舎まで送っている。なんて幸福なご家庭なのでしょう。」とおっしゃっても、本当に幸せかどうかはお隣のご本人に聞いて見なければ分りません。
ヒョッとするとご主人は会社の仕事上のストレスで逃げ出したいのかもしれません。
奥様は実家のお母様が病床に付してその心労のさ中にあるのかもしれませんし、愛する弟さんが刑務所に入っているのかもしれません。

<松(待つ)・竹(貴)・梅(産め、埋め) 実に深い意味があります>
サトルでは春と秋の年二回に大きな大会講演を行って、毎回皆さまの心に感動を詰め込んでもらうことをしております。

従ってご来場者をお迎えするわたし達の心の波動が会場空間に響いてしまいますので、まづスタッフ側の心が大事になって参ります。
ですからいつも「笑顔」、「挨拶」、「元気」が口ぐせです。
3月9日の大会は、感じていただく舞台装飾。大会テーマの「真我の鼓動」それは日本の象徴 富士に有りとして、舞台上一面に菜の花でかこまれた富士山。
心と身体は不二一体。富士とは「見えない心と見える物質」の不二一体に他なりません。
舞台装飾を担当していただいたのは塚田夢笙さん。
舞台は富士に加え松竹梅をあしらう装い。富士の裾野に「この花咲く耶」と五弁の桜。そして亜垂敷き時代を待つ(松)、貴け(竹)るこころに、埋(梅)たる「真我」。
新しい時代を迎えるためには、自己覚醒が何よりもポイント

<小さな富士の中には本モノの富士のお砂が>
舞台上のその小さな富士山の中に皆さまにはもちろん見えませんがそっと富士五合目のお砂を入れております。
青竹は新月の日に取られたもので、松・竹・梅ともにいずれも出雲大社相模分祠宮司さまから塚田夢笙さんが頂いたもの。

毎回ひとつひとつ意味あるものを集めて舞台に盛りますが今年も、「真我の鼓動」が今回も会場に響いておりました。

この3月、とりわけ日本全体の意識のアセンションが著しくなって参りました。
意識の現象のスピードがいままで以上に速まっていることをお気づきでしょうか。

この2008年 春3月から、日本全体が「真我」を覚醒し、少しづつ亜垂敷き時代を築いていくことになりましょう。
2008年03月15日
豊かさはヒトをダメにする
13年ほど前にインドの片田舎を歩いたことがある。
荒涼な原野、赤い土と一塊の木々の間に小さな田舎屋がぽつんぽつんと散在していた。
ある早い朝のこと、その一つの陋屋で見た。
三歳くらいの女の子が、入り口のかまちに腰掛けている老人に、水を張った洗面器を両手に持ち、片手にタオルをぶら下げて洗顔を進める風景であった。

祖父だろうその老人が洗顔を済ませるまで、じっと佇んでタオルを差し出す。
こうした風景は今の日本で果たしてお目にかかれるだろうか。
女児が老爺・老婆の日常の世話をするインドでは、老人は智者であり生活の大先達者である。
ゆえに祖父・祖母初め老人は尊敬の対象人物であり、かれらのお世話をすることは、若年者として当然のことなのである。

インドの家庭では老人は自宅で死を迎える。
幼児は家族と共にその死を看取って、「死」について学んでいくのである。
故にインドでは老いも若きも立派な生死観を持っている。
かつての日本の姿もそうであった。

インドの田舎の子供たちは貧しくノートも無く、このため木板を持ち歩いている。
つまりノート代わりにそれを使うのである。
だから学力水準が低いかというととんでもない。
日本ではせいぜい掛算の9×9は覚えるが、かの国では19×19は諳んじる。

ましてや数学の大天才 ラマヌジャンを生んだ土地柄である。
チベットでも同様だ。
山岳地帯での貴重な水を小さな子供たちが水源と我が家との間を数キロも往復する日課。
それでもニコニコと「自分たちはとっても幸せ」とかえってくる。

貧乏な国ほど倫理観や生きる逞しさがある。

モノがないから、それに惑わされず精神の気高さが残っている。

老人を大切にする国が押しなべて精神性が高い国である。

わが国や欧米を見ると、モノが豊かになる、贅沢になるとヒトはダメになっていくようだ。
人間に物質至上主義を与えると精神も、地球も崩壊してしまうようだ
2008年03月13日
自転車三人乗り

紀元前の秦が栄えたのはこれまでになかった律法の故といわれています。
秦王に深く信頼され、宰相となった商央は法律によって国政から国民の生活まで厳しく統制をし、一大法治国家を作り上げました。
もちろん、諸国にも法律はありましたが、商央が断行したような厳しい法律は存在しなかったのです。
しかし律法による厳しさは、やがてその商央も自らの作った法により「車裂きの刑」で殺されてしまったのです。

正義も過ぎれば頑なになる。
ここに「法律」と「道徳」の違いがあって、天に向かって唾すれば、やがてそれは己に帰るのが道理。だから身を律して他人にツバを吐き掛けないのが「道徳」。

ペッペとツバを吐いて道を汚したり、タバコを捨てたりするのを取り締まるのは公害防止条令やポイ捨て禁止条令。
思いやりがあればこんな法律はいらないのです。

わが国でもちかじか裁判員制度が導入されて国民が否が応でも「裁く立場」を押し付けられることになる。
似たような法律が、警察の取締りで挙行されそうだ。
それが「自転車三人乗り禁止条令」。
子供二人を抱えたお母さんは、否が応でも子供を自転車に乗せてスーパーに買い物に行かねばなりません。
子供を家に置いて一人でお出かけできますか。

狭い道筋で万一転倒デモしたら危険という警察の判断なのだろう。
だから三人乗りは、違反すれば「二万円以下の罰金、または科料」の対象となるという。
一年間に400~500件の転倒事故があるという。
しかしたったそれだけ根拠で規制に入るというのはいかがなものか。

それよりも重大事件の検挙率を上げたり、ストーカーから殺人にいたる犯罪、地元でもうわさになっている用の迷惑行為から重大犯罪への変容などを未然にふせぐ「未事件対応」の方がより重要だろう。
狭い道を三人乗りが危ないのなら、広くて安全な道にするのが行政の仕事ではないでしょうか。
全国5000万の所帯に一台は自転車がありましょう。
国民の生活実態を最優先とする視点でなくて、地理的・物的根拠からの一方的な規制という姿勢に警察の理念を疑ってしまう。

駐輪禁止での野放図な放置もありましょう。
ただそれを締め出すのではなくて、そうせざるを得ない国民生活の視点に、行政は目を向けてはいない。
国民の生活が第一義であって、その不都合、不条理をとり除くのが古今を問わず政治の根幹。
先に二年前だったか、オートバイの路上駐輪規制が東京都心でありました。
当時は一網打尽で、警察署退職者を総動員しての路上一斉取締りが1年あまり続いたでしょうか。
自宅玄関前にチョイ置きした50CCバイクも切符が切られました。
誰が見ても警察退職者の第二の職場作りだろうと思われている。

いまでもチョイ置きバイク、蕎麦屋の出前も、宅配便のお兄ちゃんもバイク仕事や日常に生活にその規制で困っている。
三人乗り自転車にかぎらず、人に迷惑を掛けないという思いやりが先行すべきであって、それがあれば法律はいらない。
「法律」のまえに「道徳」が社会全体を覆うことがなによりも大事なところ。
自分の心には嘘がつけない。
その嘘がつけないこころのままに生きるのが倫理であり道徳なのです。




