2010年03月17日
細胞に祈りを!
[言霊セミナー中の鈴木 年に数回 こんな講座をしております。今年は5月に名古屋、8月に札幌講演の計画]
想いが体質を変える。
それはブルース・リプトン博士のDNA研究からも良性意識や言霊がDNAのふるまいに影響を与えるといった科学的証左もある。
言霊や祈りや意識が、有用な脳内ホルモンを分泌し、それが血中に放出しされ細胞の培地といえる血液が情報を持つことになる。
その血液培地が細胞の膜スイッチをオンさせる。
すると細胞内部のDNAに働きかけて、意識や環境に応じた、たんぱく質が作られるという。
病の内の9割は、心のひずみから発する。
残りの一割は外因性である。
だから「病」は心の危険信号である。
細胞さんからの合図である。
また日々の想いは、自分の信念や行動や体質を変え、環境に大きな影響を与えていく。
いや意識や言霊が環境を作っていく。
だから体質の源核であるDNAの発動作用すらかえる。
良質なる気づきは、感動は、充実は、眠って秘めたる神聖DNAを覚醒させる。
霊体(生気体)と肉体の結合が弱い部分は、霊エネルギーと肉物質との結合が不十分で、そこが病となる。
肉体は自分のもののようであって、自分のものでない。
それは肉体物質が宇宙始原の物質、水素・酸素・窒素・炭素のゆかりを持っていて、このゆかりの元素から体が作られているからだ。
これらの元素は、もとより自分が作ったものではない。
両親ゆかりの細胞や、生まれてからこれまでの食材から戴いたものである。
食事という地球上の材料を食べるのは自分であっても、その素材は地球のもの。
その食材も宇宙始原のゆかりの元素が過去幾世代の変遷を経て、いま地球資源としてそこにもたらされたもの。
自己意識は霊エネルギーとしてその肉体に同居している。
この「大宇宙空間自体が生命体である」と認識すると、小さな空間も、いのちをもち、自分の中に在る「いのち」とは、外部空間にもつながっていて、花にも岩にも大空にも同調するという深いところからのメッセージも納得できる。
肉体細胞は、ご両親からいただいたもの。
然れどもさかのぼれば祖先からのいただきモノ。
更にズットさかのぼればビッグバン以来の宇宙元素に由来する。
また見えない「いのち」も賜りもの。
肉体は借り物の「着物」であるから本来は自分のものでない。
それを勝手に自分のものだと思っているから過ちがある。
過ちとは何か?それは共生(トモ)なる肉体細胞にむかって「感謝」の祈りをもたないことである。
自分のものだから何をしてもいい、少々怪我をしても、酷使しても自分のものだからいい。
こうした自己独占の思い込みが「病」を作る。
霊思念が主であって、肉は縁あっていただいた従者である。
霊主体従の主役の霊思念体エネルギーが、物質従者細胞に向かって感謝の念なければ、霊と肉の結合は強固にはならない。
細胞こそ純粋で、自己主張など何一つしない。
なんと主役霊思念体意識よりも、はるかに純粋ではないか。
それでいて無報酬で黙々と生体維持に全力を傾けている。
60兆個の細胞が整然として、霊思念体のために協働し働き続けてくれている。
ゆえに霊思念体は、涙してこの真の味方 「細胞」に心の奥底から感謝の祈りを捧げるべしである。
万物は共にいのちを持つ同胞であり、地球環境は共生である。
人類は地球という体内の個々の細胞である。河川は血管であり、海は羊水である。
ヒトの霊と肉の関係も、いわんや共生である。ヒト大腸は菌との共生で、およそ1000種もの体内有用酵素を生産し、その酵素のお陰で通常の生体化学反応の数100万倍もの速度で生体代謝が与えられ、この生命体を維持している。
酵素が造られなければ、生体は新陳代謝、栄養代謝、解毒代謝はほとんどないに等しい。
正しく大腸菌は「お陰さま」である。
存在するもの、その全ての物質は相互に影響しあって生きている。
逆に言えば、存在するものは影響しあわないものはないということである。たとえそれが敵であっても自己進化の素材なのである。
[生命体、それ種が違っていても万物は友。 子猫と大きなワンちゃんのふれあい]
肉体をいじめることは、鍛えるというプラスの意欲ならまだしも、かりそめにも、自殺なんてしようものなら、それは殺人罪であるから、もっとも罪が重い。
両親と先祖の縁を自爆テロで破壊してしまうから、先祖にも、その又大先祖神、大宇宙にも申し訳がたたないことになる。
透徹した自己細胞への祈りは、両親への祈りであり先祖への祈りとなる。
だから本来、仏壇も要らない。細胞への祈りは行き着くところ神への感謝に通じることになる。
「細胞に感謝の祈りを!」、それを毎日の習慣にしようではないか。
2010年03月15日
生やつ橋
先だって、サトルの関係者からの京土産で「生八橋」をいただきました。
論者が中学校のときでしたが、修学旅行は京都に二泊三日だったと記憶します。
もちろん枕投げの記憶もありますが、母へのお土産がこの「八橋」でした。
「生八橋」を頂いた彼女に「生八橋の縁起といおうか、ネーミングの起源は何かねえ?」と尋ねたのですが答えが出てきません。
それで、少々調べてみました。

[生やつ橋はもっちり感がいいですが、少々歯にくっつきますね]
京都のその昔、八橋検校というお琴の名人先生が居られたのです。
その八橋検校の歿後、彼の遺徳を偲んで、墓所のある京都黒谷金戒光明寺に参詣におとづれる人々が後を断ちませんでした。
このため門弟たちは、八橋検校に因んで琴を形取った焼菓子を「八ツ橋」と名付けて、参道の黒谷の森の茶店で売り出しました。これが京名物「八ツ橋」の始まりのようです。

[おたべは粒餡を入れた、やつはしの発展形のようですね]
ところで、「八ツ橋」といえば「かきつばた」の花とともに、平安の歌人在原業平が想い起こされます。
江戸時代、東海道五十三次の39番目の宿場として栄えた池鯉鮒(ちりふ)には、八橋町の無量寿寺の庭園で「かきつばた」の名所があります。
この八橋は、平安の歌人在原業平(ありわらのなりひら)が、「かきつばた」の5文字を句頭も入れて歌を詠んだことに由来しております。
「むかし男ありけり」の出だしで有名な歌物語「伊勢物語」(西暦900年代)の九段の中で、京から東の方へ住む国を求めてゆく下りの中で、平安初期(800年代)にこの地をおとづれたことが描かれています。
かきつばたの美しく咲く水辺に腰をおろして、糒=ほしいい(ご飯を乾燥させたもの)をつかっている時、話の成り行き上、「かきつばた」の5文字をそれぞれ五七五七七の句の頭にすえて旅の心を歌にするようにと、友人に促され詠んだのが、
からころも きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる たびをしぞおもう
の歌でした。その意は、唐衣をずっと着続けていると次第に身に柔らかくなじんでくるが、ちょうどそのように慣れ親しんで来た妻を都に残しての旅は、思えば遠くまで来たものでなんとやるせないことだろう、というものでしょう。
友人達はみな業平の歌に心を打たれ涙したと描かれています。
ここでの八橋は、土地の名で「川の流れが蜘蛛の手のように幾筋にも分かれているため、橋を八つ掛け渡してあるので八橋という」と、伊勢物語は説明しています。
三河地方には、この「八橋」に因んだ故事が伝承されているようですね。
京都でしたか?以前 5月に紫色の葛の和菓子を求めたら「からころも」と書いてあるですね。
でもなんとなく季節モノだから「かきつばた」かなあ?なんて思ったら、業平の和歌をシャレてたのですね。
風流なもんです。
論者が中学校のときでしたが、修学旅行は京都に二泊三日だったと記憶します。
もちろん枕投げの記憶もありますが、母へのお土産がこの「八橋」でした。
「生八橋」を頂いた彼女に「生八橋の縁起といおうか、ネーミングの起源は何かねえ?」と尋ねたのですが答えが出てきません。
それで、少々調べてみました。

[生やつ橋はもっちり感がいいですが、少々歯にくっつきますね]
京都のその昔、八橋検校というお琴の名人先生が居られたのです。
その八橋検校の歿後、彼の遺徳を偲んで、墓所のある京都黒谷金戒光明寺に参詣におとづれる人々が後を断ちませんでした。
このため門弟たちは、八橋検校に因んで琴を形取った焼菓子を「八ツ橋」と名付けて、参道の黒谷の森の茶店で売り出しました。これが京名物「八ツ橋」の始まりのようです。

[おたべは粒餡を入れた、やつはしの発展形のようですね]
ところで、「八ツ橋」といえば「かきつばた」の花とともに、平安の歌人在原業平が想い起こされます。
江戸時代、東海道五十三次の39番目の宿場として栄えた池鯉鮒(ちりふ)には、八橋町の無量寿寺の庭園で「かきつばた」の名所があります。
この八橋は、平安の歌人在原業平(ありわらのなりひら)が、「かきつばた」の5文字を句頭も入れて歌を詠んだことに由来しております。
「むかし男ありけり」の出だしで有名な歌物語「伊勢物語」(西暦900年代)の九段の中で、京から東の方へ住む国を求めてゆく下りの中で、平安初期(800年代)にこの地をおとづれたことが描かれています。
かきつばたの美しく咲く水辺に腰をおろして、糒=ほしいい(ご飯を乾燥させたもの)をつかっている時、話の成り行き上、「かきつばた」の5文字をそれぞれ五七五七七の句の頭にすえて旅の心を歌にするようにと、友人に促され詠んだのが、
からころも きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる たびをしぞおもう
の歌でした。その意は、唐衣をずっと着続けていると次第に身に柔らかくなじんでくるが、ちょうどそのように慣れ親しんで来た妻を都に残しての旅は、思えば遠くまで来たものでなんとやるせないことだろう、というものでしょう。
友人達はみな業平の歌に心を打たれ涙したと描かれています。
ここでの八橋は、土地の名で「川の流れが蜘蛛の手のように幾筋にも分かれているため、橋を八つ掛け渡してあるので八橋という」と、伊勢物語は説明しています。
三河地方には、この「八橋」に因んだ故事が伝承されているようですね。
京都でしたか?以前 5月に紫色の葛の和菓子を求めたら「からころも」と書いてあるですね。
でもなんとなく季節モノだから「かきつばた」かなあ?なんて思ったら、業平の和歌をシャレてたのですね。
風流なもんです。
2010年03月13日
サトル 春の大会
片岡慎介さんのネーミング「人生をオールインワンに生きる」の統一テーマで4月17日(土) 津田ホールでサトルの「春の大会」 を実施します。
この大宇宙の成員として、この世に生を受けた私達。
父と母の愛を受け、幼き体験から知恵を知り
そして青年期を迎え、愛に仕事にと人生の荒波を受ける。
生老病死、苦渋に満ちたこの世の中も、ひとたび括目すれば、実は素晴しき世とやがて知る。
汚泥と苦悩の世の中は、己の心の曇り、偽我が真因であったと知る。
人生60年を過ぎ天命を知ると、経験とは「己の進化のための素材」であった。
このかけがえのない地球も己の中、巨大な宇宙も己の中、生まれてきたことの意味は「進化と自律」、そして家族も全ての出会いも、みんな自分の中にあった「オールインワン」の人生であったと気付く。
この大会では「胎内記憶の子供たち」の話をされる産婦人科医の池川明先生が登壇。
子供たちの凡そ70%が胎内記憶を持つという。
[池川先生を取材したTV局の放映、一部抜粋です]
池川先生の誕生の話から、次に小児科医の向後利昭先生が、「生きる」、「生かす」はヒトと動物の共通原則ですが、ヒトには加えて「生かされている」という概念があると、小児科医の立場から説く。
また子供たちの速読研究や脳活性に知見をもつ飛谷ユミ子先生が「潜在能力を生かし脳力を高める」 という講演をされる。
サトルの学術副委員長の小川修さんは、10年以上も前から、国際的エネルギー需給のアンバランスを指摘し、これまでの生活と違った「本物のサトルな生き方」を提唱されてきた。
現在の成人層に、これまでの企業経営の姿勢とは違った日本の未来を創る「社会人とは?」のメッセージを送ります。
続いて登壇される宮西ナオ子先生は 唾液学、お能文化の権威者でなおかつ環境、美容と健康関連、生き方についての講演に全国を廻っている講師。
「更年期障害は最高のプレゼント」と題した講演を行う。
久々に帯津良一先生も登壇されます。
著書 「達者でポックリ」はかなりの評判を呼びましたが、講演の最後のとりを行ってもらいます。
誕生から、少年期、青年期、そして成人から壮年に向かい、やがて「達者でポックリ」。
ですから「人生をオールインワンに生きる」としたのです。
どんな年代層の切り口からでも提言されて、ご家庭で活用できる内容にしたいと思っております。
この大宇宙の成員として、この世に生を受けた私達。
父と母の愛を受け、幼き体験から知恵を知り
そして青年期を迎え、愛に仕事にと人生の荒波を受ける。
生老病死、苦渋に満ちたこの世の中も、ひとたび括目すれば、実は素晴しき世とやがて知る。
汚泥と苦悩の世の中は、己の心の曇り、偽我が真因であったと知る。
人生60年を過ぎ天命を知ると、経験とは「己の進化のための素材」であった。
このかけがえのない地球も己の中、巨大な宇宙も己の中、生まれてきたことの意味は「進化と自律」、そして家族も全ての出会いも、みんな自分の中にあった「オールインワン」の人生であったと気付く。
この大会では「胎内記憶の子供たち」の話をされる産婦人科医の池川明先生が登壇。
子供たちの凡そ70%が胎内記憶を持つという。
[池川先生を取材したTV局の放映、一部抜粋です]
池川先生の誕生の話から、次に小児科医の向後利昭先生が、「生きる」、「生かす」はヒトと動物の共通原則ですが、ヒトには加えて「生かされている」という概念があると、小児科医の立場から説く。
また子供たちの速読研究や脳活性に知見をもつ飛谷ユミ子先生が「潜在能力を生かし脳力を高める」 という講演をされる。
サトルの学術副委員長の小川修さんは、10年以上も前から、国際的エネルギー需給のアンバランスを指摘し、これまでの生活と違った「本物のサトルな生き方」を提唱されてきた。
現在の成人層に、これまでの企業経営の姿勢とは違った日本の未来を創る「社会人とは?」のメッセージを送ります。
続いて登壇される宮西ナオ子先生は 唾液学、お能文化の権威者でなおかつ環境、美容と健康関連、生き方についての講演に全国を廻っている講師。
「更年期障害は最高のプレゼント」と題した講演を行う。
久々に帯津良一先生も登壇されます。
著書 「達者でポックリ」はかなりの評判を呼びましたが、講演の最後のとりを行ってもらいます。
誕生から、少年期、青年期、そして成人から壮年に向かい、やがて「達者でポックリ」。
ですから「人生をオールインワンに生きる」としたのです。
どんな年代層の切り口からでも提言されて、ご家庭で活用できる内容にしたいと思っております。
2010年03月10日
ありがとう (在り難し)

[昨年 公園に愛と感謝のセレモニーを実施しました。この写真は芝公園から芝東照宮、児童公園の散策のときのもの。神社拝礼の現場ミニ講演もさせていただきました。今年も暖かくなってから行ないますよ]
最強の祝詞(ノリト)といおうか、ありがたいマントラといおうか、古来よりもっとも優れた神呪は一体何だろうか?
絶望の淵に及んで初めてこころの底から「神様、仏様!」と叫んで、確かに救われたという話を聞きます。
恐らくそのギリギリの心が、天がキャッチしたからに相違ないのでしょう。
「南無妙法蓮華経」がいいのか「南無観世音菩薩」の言霊でフェニックスを呼び込むのか。
いや「般若心経」か「天照大神」か「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネ」か。
論者鈴木には『ありがとうございます』が最高にして最大の神呪言霊であると考えているのです。
世界救済の祝詞は大祓祝詞です。その中の一説、「太祝詞事(フトノリトゴト)を宣れ」とありますが、宣るべきその太祝詞事(フトノリトゴト)の本文は空白になってます。
神社庁に聞いても誰も知らないのです。
その空白の太祝詞事(フトノリトゴト)を奏上して、「・・・・・かく宣らば、天津神は天の岩戸を押し開きて・・・・」と天界と人界のパイプがつながる。
従って、心の天の岩戸を押し開くのだから、その空白なる祝詞は、各々の心の感性に応じた「独自の暗号」のような言霊に違いなく、個々人で奏上せよということと思っているのです。
大宇宙大生命意志に対する全託の信頼と、この世に無くてもよい自己が今ここにある。
つまり自己存在という超奇跡に対する感動感謝が、皆さんに共通する至高の想いに違いないのではないでしょうか。
神と自己との信頼と絆は、「われ在り難し」から発した、単純素朴な言霊『ありがとうございます』の十音にほかならないのです。
たしかに、太祝詞には「ヒフミヨイムナヤコトモチロナネ・・・・」や「あおうえい カコクケキ・・・」などもありますが、『ありがとうございます』以上に今を感謝し、存在を感謝し、共生(トモ)に在るこのとの感謝言霊が見当たらないのです。
[論者の神社神業の基本は 感謝業 、そして己の神人に至らぬ侘びから入ります]
愛も調和も進化も勇気も、人神への修行に無くてはならない魂の凝縮されたエッセンス。
純正も希望も創造も信念も人から神への飛躍のための霊可理(光)です。
「感謝」は、それらの天が使わす八光に対するこちら側からの返礼です。
感謝に天に返す愛あり、感謝に天の期待である己の進化があり、感謝に神人に向かう勇気あり、感謝に共生の調和の義務ありである。
日本人が21世紀に世界を先導し物質至上主義から、共生主義とでも言う心と、特に魂を原点に据えた真の生き方、「霊主心従体属」を先導していきます。
原宿にたむろする若者も、電車ではた目も気にせず大声で笑いまくる女学生も、ゲーセンに入り浸る少年たちも『ありがとう』の言霊くらい知っている。
日本人なら誰しもが知っている「ありがとうございます」。
全ての日本人に新世界創造の大きな使命があるから「ありがとうございます」の十音(統一音)の単純素朴な言霊が授けられている。
世界を先導して行く天津霊継民族には、自らの心の行き詰まりを打開するためにもこの最強の祝詞「ありがとうございます」を駆使する必要があるのです。

[花を見て美しいと感じるのは、花の精霊が魂に語りかけているからです。だから精霊さんに返事を返すと反応しますよ]
何かにすがって、助かりたい、なにかに頼ってやり直したい、何かを念じて発奮する。
しかし他力の想いのその前に、本物の内なる自己の輝きを表現する言霊『ありがとうございます』があって初めて、人と神がつながる。
『ありがとうございます』で魂の発動がある。
そして自分の内部から愛が、調和への道が、進化の躍動が、勇気の充実が湧き出てくる。
想いが体質を変える。その想いが新たな遺伝子情報を創る。
その想いと言葉の至高の一致、肉体と心の躍動する究極の祝詞言霊、それが「ありがとうございます」なのです。
2010年03月08日
岩長比売さま
[大室山 山頂からわずかに下ったところに岩長比売さまを祀る祠があります]
以前にも触れました岩長比売さま。
お父様の大山津見さまは、天孫降臨のニニギの尊のお嫁さんにと、岩長比売さまを差し出された。
ところがニニギの尊は、面食いで「スミマセン!」とお断りをしてしまった。
このために、お父様は岩長比売さまの妹さまの此花開耶をかわって差し出された。
ニニギの尊は、この美女にいやも応もなく、やがて結婚されることになったのです。
ですが大山津見さまの心底は、皇孫のこれからの御世を、盤石なる末代までの繁栄を祈る意味で岩長比売さまを出されたのです。
岩長比売さまは、盤石や永代の意味にたとえられ、また大山津見さまの娘ですので、山々のイワクラにその陰を認めることが出来ます。
伊豆伊東の大室山という、すり鉢型の山には下からリフトも出てますので、容易に山頂に上ることができます。
昨年でしたか? 大室山の山頂に行きましたら、頂上が火口にの凹みになっていて、そこはアーチェリーの練習場になっていました。
火口といっても、もちろん死火山のようで、単なる200~300mの直径を持つ凹みです。
ですから誤って的からはずれた矢が飛んできても、周りに迷惑にはなりませんね。
[大室山頂にある5人仏は、富士山の方向を向かれております]
この練習場に降りる中途に、岩長比売さまの小さな祠があります。
周りが岩盤で、そのくぼみにある祠は富士山方向を向いている。
日本の山々は、どんなに小さな山でも神社や祠はある。
これが日本の原風景なのですね。
こうした風景は海外、特に欧米では見られません。
此花開耶さまの本拠地 富士山を眺めるポイントは関東近県いたるところにあります。
小高い場所には浅間神社さんがしばしば建立されております。
論者の住居の近場で言うと、品川神社さん、白山神社さんなどがそうですね。
浅間神社さんは、もちろん此花開耶さまがご祭神ですが、お姉さまの岩長比売さまと合祀されているところもあります。
ですが、めったになく岩長比売さま単独の祭祀神社は全国でもごくごくわずかなもの。
そうしたところは月読み神社さんとおなじですね。
[石割山の 巨大なイワクラ、この写真はもう5年くらい前でしたか、知人の榊間さんらとご一緒でした]
山中湖湖畔にある石割山は、文字通り岩が裂けているイワクラをお祀りした神社さんがあります。
ご祭神は岩長比売さまです。
岩長比売さまは、こうした直接祭神となられている神社さんは非常に少ないものの、木造の神社ではなく、全国の山々のイワクラ自体が、どうも岩長比売さまを内在しているように思えてなりません。
日本人の調和の意思(石)、生命をいつくしむ盤石な意志(石)に、岩長比売さまがいつも支えの波動を送っているような気がしてなりません。
2010年03月06日
勅語について
【魂磨きの】
[まきの古木 たしか千葉 中山の蓮華寺の辺りでしょうか?人間のようにこざかしくもなく、純粋です。だから長命なのですね。]
『学を修め 業を習い もって智能を啓発し 徳器を成就すべし』
昔からの勅語ですが、人生の真髄を突いているとおもいませんか?
昔の勅語など、アナクロだとお思いの方もいるかもしれませんが、深いですね。
基礎力を修めるとは、小学校から既に英語を学んだり、株取引のためのパソコンの練習をすることでは決してありません。
自国語 この日本語をしっかり身につけて、日本の伝統と文化を腹に落とさなねば、信頼すべき国際人にはなれなません。
文化の心無く、口先だけの英語力の方は、ニューヨークのハーレム街にゴロゴロ居る。
自国の文化を語れる品格こそ大事で、小学校ではその基礎を育むべきですね。
「業」とは、作業であり仕事のこと。手足を動かして実践が無ければ決して本物にはなれません。
東大卒の方程式型 左脳人間の限界を、論者は部下としても大勢見てきました。
合理主義と記憶力の奥底に、「仁」、「愛」、「徳」が無ければ世間にはまったく通用しません。
ひとはその方の学歴や、会社の肩書きを見ているのではなく、その方の心を皆さんみていらっしゃる。
「智能」とは、本来その人が持つ魂の光のことです。
教育とは魂が本来もっている「智能」の光を呼び出すきっかけづくりなのです。
「智能」の光は魂の中にぎっしり詰まっている。
だから魂を見つめなければ「智能」は啓発されないのです。
そして心の器とでもいえる、「徳の器」を大きくして、少々の困難にも動転もせず、常に前を向いて、路傍に困る人あれば手を差し伸べることが肝要ですね。
ヒトは常に神様に、その魂の修行を試されている。
心の器を広げて、神様と同じくらいの「徳の器」を大きくしたいものです。
こうした教育の基本姿勢が過去の日本にはあったのですね。

[駒込の六義園の赤松 いい波動を出してますよ。手の平を向けて「ありがとうございます」といってみてください。きっといい反応がありますよ]
論者 鈴木は戦争否定者である。だが山本五十六海軍提督の教育論にうなずいてしまいます。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、あとを褒めねば、ヒトは育たず」・・・・と。
まず親がそのお手本を、体で子供に示しているかどうか。
口先だけではあるまいか。
手本を見せて、解説してやる。
そしてご本人に具体的にやってもらわねば体で覚えません。
先生が講座で料理の話をしても、実際に生徒が造ってみなければ自分のものにはなりません。
そして最後に先生が褒めてやると、生徒のヤル気に火がつく。
このヤル氣を出させるまでが、親や先輩の務めなのです。
こうしたことが、塾や学校まかせで、今の家庭に欠けているところです。
[まきの古木 たしか千葉 中山の蓮華寺の辺りでしょうか?人間のようにこざかしくもなく、純粋です。だから長命なのですね。]
『学を修め 業を習い もって智能を啓発し 徳器を成就すべし』
昔からの勅語ですが、人生の真髄を突いているとおもいませんか?
昔の勅語など、アナクロだとお思いの方もいるかもしれませんが、深いですね。
基礎力を修めるとは、小学校から既に英語を学んだり、株取引のためのパソコンの練習をすることでは決してありません。
自国語 この日本語をしっかり身につけて、日本の伝統と文化を腹に落とさなねば、信頼すべき国際人にはなれなません。
文化の心無く、口先だけの英語力の方は、ニューヨークのハーレム街にゴロゴロ居る。
自国の文化を語れる品格こそ大事で、小学校ではその基礎を育むべきですね。
「業」とは、作業であり仕事のこと。手足を動かして実践が無ければ決して本物にはなれません。
東大卒の方程式型 左脳人間の限界を、論者は部下としても大勢見てきました。
合理主義と記憶力の奥底に、「仁」、「愛」、「徳」が無ければ世間にはまったく通用しません。
ひとはその方の学歴や、会社の肩書きを見ているのではなく、その方の心を皆さんみていらっしゃる。
「智能」とは、本来その人が持つ魂の光のことです。
教育とは魂が本来もっている「智能」の光を呼び出すきっかけづくりなのです。
「智能」の光は魂の中にぎっしり詰まっている。
だから魂を見つめなければ「智能」は啓発されないのです。
そして心の器とでもいえる、「徳の器」を大きくして、少々の困難にも動転もせず、常に前を向いて、路傍に困る人あれば手を差し伸べることが肝要ですね。
ヒトは常に神様に、その魂の修行を試されている。
心の器を広げて、神様と同じくらいの「徳の器」を大きくしたいものです。
こうした教育の基本姿勢が過去の日本にはあったのですね。
[駒込の六義園の赤松 いい波動を出してますよ。手の平を向けて「ありがとうございます」といってみてください。きっといい反応がありますよ]
論者 鈴木は戦争否定者である。だが山本五十六海軍提督の教育論にうなずいてしまいます。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、あとを褒めねば、ヒトは育たず」・・・・と。
まず親がそのお手本を、体で子供に示しているかどうか。
口先だけではあるまいか。
手本を見せて、解説してやる。
そしてご本人に具体的にやってもらわねば体で覚えません。
先生が講座で料理の話をしても、実際に生徒が造ってみなければ自分のものにはなりません。
そして最後に先生が褒めてやると、生徒のヤル気に火がつく。
このヤル氣を出させるまでが、親や先輩の務めなのです。
こうしたことが、塾や学校まかせで、今の家庭に欠けているところです。
2010年03月04日
三本立ての一日

[岩盤浴は熱が体の芯に浸透して、血液が42℃位になりますと免疫性が上がるようですね]
2月28日の日曜日、都心付近では最大の岩盤浴スパといわれる多摩の「竹取の湯」に行ってまいりました。
岩塩、トルマリンほか様々な天然石を敷き詰め、床下から熱して、遠赤外線を身体に通す。
ですから皮膚の奥まで熱浸透して発汗作用が多い。
つまり石焼イモ状態になるわけですね。「竹取の湯」では種類効能の違った岩盤が6室もあって、それぞれに10床くらいのベッドがある。

[龍玉石というのでしょうか、玉石の上に軽い敷物を敷いて寝ますのでツボも押されて心地いいですよ。]
宇宙飛行士が宇宙から帰還すると、皆さん健康になって、生命力も強く家庭もハッピーになることがいわれています。
これは大気圏外で宇宙線を強く浴びた結果で、宇宙からの微量放射線は身体にいいと最近の学説で言われております。これをホルミシス効果といいます。
秋田県の玉川温泉では、がん治療で有名ですが、温浴のミネラル成分に特効があるのではなく、どうも岩盤から放出される微量放射線のホルミシス効果といわれております。
私も岩盤浴では、身体の奥底から毒素が抜ける気配で大変心地好かったです。
日本では岩盤浴というよりも、「釜風呂温泉」は古くから知られていますね。
炭焼き土釜の炉床に荒塩を30cmくらい固く敷き詰め、その上にむしろを敷いてその上に横になる。土釜の床下から熱しての釜の中で蒸し焼きになる。
これが元祖の岩盤浴だと思いますが、その発祥は古く1300年以上も前の、確か天武天皇の開発とか聞きます。
わたしも栃木と長岡で体験してますが、恐らく邪気おとしと、免疫の回復が「かまぶろ」の狙いじゃないかしら。たしかに邪気は抜けますよ。
この多摩の「竹取の湯」で岩盤浴を楽しんだ館内で、昼食時にTVを見ていたのですが、小雨降るなかの東京マラソンの実況中継。
私の知人も数人参加しているとききましたが、都庁スタートの3万人の参加は壮観ですね。

[いつもは自宅から100m先の日比谷通りにマラソン応援に行くのですが、この日は岩盤浴に]
そのマラソン中継のTVテロップに、チリ大地震の影響での大津波が押し寄せるという。
しかも太平洋沿岸で高さ2mとかの情報もありギョギョ、ギョエッ!
この日は、ほぼ満月に近く、月の引力での満潮時の大津波は本当に心配されました。
岩盤浴のはずがTVニュースに釘ずけになってしまいました。
ところがチャンネルを廻すと今度はバンクーバ冬季五輪の閉会式で沸いているニュースが流れる。
東京マラソン、大津波、バンクーバ五輪閉会式と、この日は三本立てでした。
昨年の丑年からことしの寅年にかけて、日本ではうしとらの金神様(龍体であり國常立大神)がミソギハライの大きな立替の御用をされる。
艮(うしとら)の金神様の御用ですから、日本のオリンピック選手には金よりも「銀」が多かったのもそのせいですね。
なぜって、金に艮(うしとら)が付いてますでしょ。
2010年03月01日
言霊ア-ワの繋ぎ()

[言霊セミナー中の論者 鈴木 年に数回 こうしたセミナーを実施しております]
ア・オ・ウ・エ・イの「ア行五大」は主観自己の根幹をなす精神内容である。
「ア」は純正自己そのもの、「オ」は経験知性、「ウ」は勇気判断、「エ」は菩薩の智恵、「イ」は物心一切を存在なさしめている「大生命意志」であり「魂の本源」である。
この「ア行」は「誘な氣」のエネルギーの素性であって、ア・オ・ウ・エ・イはいづれも、手ではつかめない非物質、高次元の精神内容である。
ヒトガタ寝姿の五大、手足に五指をもつ「見える肉体」は、アオウエイ五行五大の相似象。
ゆえに「ア」の純正自己は数霊の「五」に、言霊の「口」とかいて、「吾(ワレ)」と詠ませる。
ワ・ヲ・ウ・ヱ・ヰの「ワ行五大」は「誘な氣」のエネルギー精神に相対する「誘な身」の「物質界」を意味する。
「ワ」は肉体自己、「ヲ」は命の水、「ウ」は塩・ミネラル群である。そして「ヱ」は火・渦であり、「ヰ」はこの生宮、地球そのものである。
また「ヰ」の地球とは「誘な氣エネルギー」の凝縮物質体でもある。
見えない精神の「ア:吾」に対して、見える肉体の「ワ」は「我」と書く。
すなわち「我」とは「肉体ワレ」である。
「ア」-「ワ」の繋ぎとは「精神の自己(吾)」と「肉体自己(我)」の統一である。
[御田八幡神社 都会の中にあっても 落ち着く神社さんです ]
精神系(ア行)と物質系(ワ行)は、「(イザナ)氣」と「(イザナ)身」の氣身二神に比喩せられ、また「右の手」と「左の手」、陽と陰にも比喩される。
よって神道では中道中和、精神界と物質界の統一自己を目して、左右の両手でカシワデを打つ。
右手だけでは「音霊」は鳴らず、左手だけでも「音魂」は成らない。
ちなみに神前で発止と打つ拍手(かしわで)は、知らずのうちに純正であったはずの自己精神の内部に巣食う「魔」の払え行である。
イザナ氣とイザナ身の「氣・身」二神の合体調和から発するの魔払いのための神音(カネ)がそれである。
「ア」 は吾、にして宇宙を思惟する霊的な主体自己。
「ワ」は我、霊的主体自己(ア)によって 認識される客体自己であり、ワ行の全景は「肉体自己」を含め、「ア」から認識される対象客体全体である。
「ア行」は精神宇宙のカオス一切を分別判断できる大生命意志(イ)の形質を持った分け御霊としての霊的創造主体である。
大宇宙初発の神エネルギー「高次元イ」そしてその物質形成体「ヰ」(地球)からやがて、「ア」と「ワ」が誕生する。
即ち「魂」と「三次元物質肉体」である。
ここにおいて宇宙御子 霊止(ひと)の誕生である。
霊止(ひと)とは神の賜りモノである。
ゆえに「魂」とは「賜いし霊(ヒ)」である。
また外に神は無く、神とは常に自己の内奥に住まう。
この命体(霊体)と生体(肉体)の不離一体の状態を「生命体」、「ア」-「ワ」の繋ぎという。
やがて「ア」から「オ」・「ウ」・「エ」が育成され、「ワ」から「ヲ」・「ウ」・「ヱ」が萌芽分岐される。
主観自己「ア」から全体を眺めれば、「実在系ア行」と「現象系ワ行」と認識することができる。
言霊ア・オ・ウ・エ・イは、ヒト精神の五大要素であり、それが宇宙の母なる基本波動である。
ア行は母音と教えられるが正しく「母因」である。
「ア」は「亜」であり「阿」であり「天」であり「吾」である。
「亜」は、ほのかな、未完の、なりきらぬという意味であるが、大神の亜神(幼神)とみれば「吾」と覚れる。
「阿」はコザト偏の「カタチあるもの」への変化の可能性、阿字相観の阿である。
すなわち形あるものと、カタチなきものとの境界と知れれば、エネルギーと物質の相変化の起点と読める。
「天」とはいわずと知れて神であり、「吾」のルーツである。
[千住神社さん その昔はかの地は森だったようです。]
即ち「ア」とは主観自己に他ならないが、それを「無限神聖」とみるのが覚者の悟りである。
また「悟り」とは「吾」の「心」と書く。
その「ア」の精神母体は國常立大神。
「オ」を(緒)と看ればその実体が時間・空間の変化、心の変化、転じて先祖霊との繋氣と知れる。
「ウ」は(穿)・(宇)と看ると、発見であり変化初動の驚きであり、転じて勇気・判断となる。「
エ」を漢字にパラフレーズすれば「慧」であり内なる閃きであり、光であり、智慧である。
言霊になる以前の覚者の閃きである。
「閃き」は言霊の芥子であり「言霊鳴る」寸前の脳内映像であり、菩薩界からの吾精神界への入力信号であり、これを「未鳴」(マナ)とも称する。
自己「吾」を成立させ、また他者を、万物をも成立させている生命エネルギー、大いなる生命意志が全ての生命体の背後に在ることに気づく。
つまり「花にも仏性あり」、「厠にも仏あり」、この万物を生かしめている本源が全ての生命体に存在する。
そのあらゆる命の本源、宇宙大生命意志を「イ」と表現する。
霊止(ヒト)の魂の中心核、直霊の行く末が「イ」であり生命の本源である。
「イ」とは天御中主大神をさす。
この「イ」を、低精神の開発過程でいえば衆生(ウ)、声門(オ)、縁覚(ア)、菩薩(エ)を越えた五階梯最上階の仏陀(イ)の境地がそれである。

[河津では、河津桜が満開だそうです。 写真提供:冨岡幸一さん ]
純正自己「ア」の依り代は國常立神、「オ」は月読み/息吹戸主、「ウ」は須佐鳴、「エ」は天照/速開津媛の依り代である。
また「イ」は先に述べた宇宙創造神 天御中主大神である。
オ・ウ・エは仏法の三智三命、神道の三貴神とも啓示される。
その三智を「ア(吾)」が心魂に受け、もとより「イ(大生命意志)」の意志を受け継いだ「亜神」が、オ・ウ・エを総動員して自己生命活動を輝かすのが、その存在使命である。
ワ行の肉体「ワ」は、イザナミ神の母体から頂いた。
「ヲ」すなわち一切の「水」を司さどるのは大綿津見神(オオワダツミ)並びに、水波能売命(ミツハノメ)神、淤加美神(オカミノカミ)の連合作用。
ワ行の「ウ」は大山津見神ならびに金山彦神、丹生都媛神の結晶体。
「ヱ」は火具土神である、「ヰ」は生宮地球である。
また「ヰ」は、ア行の全系に関わる「イザナ氣エネルギー」の凝縮体と覚える。
アーワの繋ぎとは「生命体(生体+命体)」そのものである。
またそれは精神原理の継承であるヤマト霊継ぐ民族と、物質原理を宝戴するユダ民族との融合に他ならない。
一方で、精神と物質の大調和に他ならない。



