2007年07月10日

おい来た魔アちゃん



[深沙大将 (別名 沙悟浄):快慶作]

簡単に自分の心を放棄できないのが人の常ではあるが、
揺れて葛藤する心を直視して「ああ結構ゆれているんだ」 と冷ややかに見つめ認めてみる。
人生の生き様は相手方や風景を見つめ話すことが中心だが、
ここに見つめ話している自分を認めると、自分の性癖が次第に見えてくる。face04

神の眼で認めているから「その陰なる自分」に本性自己が包み込んでしまう。
もう一人の本性自己は、直霊であり魂である。つまり肉体自己が純正自己に入れ替わるのである。これが心の第二の法則、心が歪むから苦悩という悪寒がやってくる、その一つの処方箋なのである。


日常生活は意識・無意識の心の想いが反映した主役自己の舞台で、脚本・演出もある程度、自分である。今ある状況はすべて自己の心が創りだした現象で、これを「認める」ことによって
本物の創作者、純正心というプロデューサーがその作品を直接批評することになる。
「認める」というプロデューサーの眼は「一切肯定」であり舞台全体の調和であり進化の目をもつ。
ここから運命の好転が作用しはじめる。
だから「揺れている主役の自分」すら、もう一人の「プロジューサーの自分」が認めてくると否が応でも場が変化するのである。
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もし、ゆれている状況をその自我意識で否定すると、
「否定」は反宇宙原理だから心は好転するはずも無く、心の第二の法則どおり、揺れる心は増加する。
否定の時点で、大いなる法則(進化)からさらにスピンアウトすることになってしまう。
ましてや揺れる心の次が「奪う」に移ると、進化の軌道ははるか彼方にズレてくる。

こうした揺れる心を見つめ・認めるということは 自己の総合完成のための高度な修練でもある。
世情を見つめることに加え、それを見つめ揺らいでいる自己さえも含めて二重に見つめ・認める。
この心の操作が、ある意味で虚像と実像を同時に捉える達観域に通じ、
肉体我の心を癒す最大の自己修練につながる。

そのうち「細胞さんありがとう」と自分に向かって平気で言えるようになる。

些細なことでもわずかに怒りが込み上げてきたら
「おい来た、魔あちゃん」と論者は自分に囁いてしまう。
心の負の存在を認めて、まるで第三者が魔を抱えているように「語り部」になってしまうと、
魔はスーと消えてしまう。
つまり怒っている自分、悲しんでいる自分を素直に認めるのだ。
相手の憎い顔を思いうかべるのではなくて、それに揺れているの自分の姿を認めろということである。原因に揺れている結果体の自分を認めろということなのである。
認めた瞬間にスーッと消える。




私たちは毎日が怒ったり、笑ったりする喜怒哀楽に絶えないが、
怒るという作用は大体 奪う心から来ている。
だから怒りが来たら、「いまおれは怒っているんだ」と素直にその自分を認めることが肝要である。face02
認めると瞬間、純正自己に移り変わって、
丁度太陽にあたったナメクジみたいに怒りが自己消滅してしまう。
「認めるということ」それは、宇宙の全ての存在を認めるという神の眼であって、
魔という歪みはその見つめられた瞬間に昇華されてしまう。